第1章 今日は勝つ!⑦
第1章 ⑦
《鴉樽》へ戻る頃には、地下街の夜はすっかり深くなっていた。
酒場の灯りだけが、 湿った通路へ橙色を落としている。
扉を開けた瞬間。
「おお、生きてた」
「若造戻ったぞ!」
「今度は何やらかした!」
笑い声が飛ぶ。
ログは顔をしかめた。
「うるせぇ……」
脇腹が痛い。
さっき殴られた場所が熱を持っていた。
主は何事も無かったみたいに席へ戻る。
ミナは入口で止まったまま動かない。
酒場の空気を見ていた。
酔っ払い。
怒鳴り声。
煙草草。
知らない大人達。
六歳の子供には、 安心出来る場所じゃない。
ログが振り返る。
「おい」
ミナは睨む。
「……何」
「突っ立ってると踏まれるぞ」
「踏まれない」
「いや普通に踏まれる」
その時。
酔っ払いが振り向きざま、 本当にミナへぶつかりそうになる。
ログが反射で腕を引いた。
「危ねぇって!」
ミナは少し黙る。
酒場では誰かが笑っていた。
「ガキ連れてきやがった!」
「お前の隠し子か!」
「殺すぞ」
ログが即答する。
酒場が爆笑した。
主は煙草を咥えたまま、 面倒臭そうに言う。
「おい店主」
「んー?」
「奥空けろ」
店主がミナをちらっと見る。
「あぁ、例の」
それだけだった。
地下街では、 余計な事を聞かない。
ミナはまだ入口から動かない。
ログは溜息を吐いた。
「……来いよ」
「嫌」
「何でだよ」
「胡散臭い」
「お前なぁ……」
主が酒を飲みながらぼそりと言う。
「疑うのは正しい」
ミナがそちらを見る。
主は視線も寄越さない。
「地下街で信用なんかするな」
静かな声だった。
酒場の騒ぎの中なのに、 妙に耳へ残る。
「でも」
主は煙を吐く。
「今日は死ぬな」
ミナは少しだけ黙った。
やがて、 ゆっくり《鴉樽》へ入る。
その横で、 ログが小さく笑った。
「頑固だな、お前」
「そっちが変」
「傷付くなぁ」
「事実」
ログが顔をしかめる。
酒場がまた笑った。
その時だった。
主が酒杯を置く。
「おい若造」
ログが振り返る。
「……あ?」
主は面倒臭そうに煙草を咥え直した。
「勝負しろ」
酒場が一瞬静まり、 次の瞬間、一気に湧いた。
「始まった!!」
「またやるのか!」
「今日は何秒だ!」
ログは一瞬だけ主を見る。
主は何も言わない。
でも、 その目で分かった。
“芝居だ”。
ログは小さく舌打ちした。
「……横暴過ぎんだろ」
それでも、 口元だけは笑う。
「まぁいい」
外套を翻す。
「今日は勝つ」
「毎回言ってんな」
酒場が笑う。
ミナだけが空気を読めず、 不安そうに二人を見ていた。
地下街の主が立ち上がる。
その瞬間。
空気が変わった。
ログも分かった。
今日はいつもと違う。
「ちょ――」
ドゴンッ!!
拳が腹へめり込む。
ログの身体が椅子ごと吹き飛んだ。
机が割れる。
酒瓶が転がる。
酒場がどよめいた。
「おい!?」
「やり過ぎだろ!」
ログは床へ叩き付けられ、 息を詰まらせる。
「っ……が……!」
立ち上がろうとした瞬間、 主の蹴りが飛ぶ。
また吹き飛ぶ。
今度は壁へ激突した。
ミナが息を呑む。
地下街の古株達だけが、 妙に静かだった。
主は煙草を咥え直し、 倒れたログを見下ろす。
「一週間じゃ足りんな」
ログが咳き込みながら睨む。
「……は?」
「一年下働きだ」
酒場大爆笑。
「長ぇ!!」
「終わったな若造!」
「一生雑用してろ!」
ログは床で顔をしかめた。
「理不尽だろ……!」
主は鼻を鳴らす。
「口が軽ぃ」
「聞こえたんだよ!!」
「あと弱ぇ」
「関係ある!?」
笑い声が響く。
いつもの《鴉樽》だった。
誰が見ても。
でも、 古株達だけは何も聞かなかった。
若造が潰された。
だからしばらく地下で働く。
それだけだ。
地下街では、 それ以上を聞かない。




