第2章 東側の噂 ⑫
酒場が静まり返っていた。
《鴉樽》の常連達ですら、 誰もすぐには喋らない。
赤い灯り。
その言葉だけで、 地下街の空気が変わる。
ログは周囲を見る。
「……何だよそれ」
主は煙草を咥え直す。
だが答えない。
代わりに、 レオが低く聞いた。
「本当に見たのか」
子供は小さく頷く。
震えていた。
ミナがそっと隣へ座る。
何も言わない。
ただ、 近くに居る。
子供は少しだけ呼吸を落ち着けた。
やがて、 掠れた声で話し始める。
「下……暗い……」
「水の音して……」
「赤い灯りだけ、いっぱい……」
ログの顔から軽口が消える。
酒場の空気も重いままだった。
子供は膝を抱えながら続ける。
「知らない人、いっぱいいた」
「鎖の音して……」
レオが僅かに息を呑む。
主の目が細くなる。
「誰に連れて行かれた」
子供は少し黙る。
そして、 怯えた顔で言った。
「顔、隠してた」
地下街では珍しくない。
だから余計に嫌だった。
子供は震えながら続ける。
「でも……赤い印あった」
「印?」
ログが聞き返す。
子供は床へ指で形を書く。
歪んだ円。
その中央へ、 一本線。
酒場の空気が凍った。
レオが顔色を変える。
「……そんな馬鹿な」
ログだけが分かっていない。
「何だよそれ」
主が低く言う。
「表の印だ」
ログが眉を寄せる。
「役人?」
「違う」
レオが掠れた声で答えた。
「もっと上だ」
冷たい沈黙。
地下街の水音だけが響く。
そしてログは、 その空気の意味をまだ知らないまま、 ゆっくり顔をしかめた。
「……何か、すげぇ面倒な話になってねぇ?」
レオは子供が描いた印を見たまま、
しばらく動かなかった。
顔色が悪い。
地下街へ降りて来た時より、 ずっと。
ログが眉を寄せる。
「おい」
返事が無い。
「レオ」
役人見習いは、 ゆっくり顔を上げた。
「……それ、役所の印じゃない」
「だから何だよ」
レオは少し黙る。
言うべきか迷っている顔だった。
主が煙草を咥えたまま言う。
「喋れ」
短い沈黙。
やがてレオは低く言った。
「中央監査局」
酒場が静まり返る。
ログだけが首を傾げた。
「知らねぇ」
「知らなくていい」
主の即答だった。
だがレオは続ける。
「表でも滅多に出て来ない」
「王都直属だ」
ミナが小さく眉を寄せる。
常連達も嫌そうな顔をしている。
ログが周囲を見る。
「……そんなヤバいのか」
誰もすぐには答えない。
代わりに、 古株の一人が酒を置きながらぼそりと言った。
「表の化け物だ」
冷たい空気が流れる。
レオは苦い顔で続ける。
「普通は犯罪組織や役人汚職を潰す側だ」
ログが顔をしかめる。
「じゃあ何で地下街で人攫いしてんだよ」
レオが静かに答える。
「だからおかしい」
沈黙。
全部が繋がり始めていた。
下層。
赤い灯り。
消える人。
東側封鎖。
そして、 表側の印。
ログは頭を掻く。
「……俺もう普通に面倒事の真ん中居るよな?」
ミナが即答した。
「前から」
酒場で少し笑いが漏れる。
ほんの少しだけ。
だが主は笑わない。
煙草の火だけが、 暗闇で赤く揺れていた。
その時だった。
裏通路側から、 短く笛の音が響く。
ピィ――……
《鴉樽》側の合図だった。
主の目が変わる。
常連達も一瞬で立ち上がる。
空気が切り替わる。
ログが顔を上げる。
「何だ」
主が短く答えた。
「東側が破られた」




