第2章 東側の噂 ⑪
ガシャン!!
酒場側で、 何かが倒れる音が響いた。
続いて怒鳴り声。
「捕まえろ!!」
ログは反射で走った。
格好つける暇も無い。
ミナとレオも続く。
主だけは最後に動く。
だが一番速かった。
階段を降りる。
酒場の空気が荒れていた。
椅子が倒れている。
割れた酒瓶。
常連達が一方向を見ていた。
酒場奥――
水路へ続く細通路。
そこを、 小さな影が走っていく。
ログが目を見開く。
「ガキ……!?」
まだ十にも届かない。
痩せた子供だった。
裸足。
ボロ布。
怯え切った顔。
後ろから、 見知らぬ男が追っている。
地下街の人間だった。
だが《鴉樽》側じゃない。
男が怒鳴る。
「待て!!」
その瞬間。
主の声が落ちた。
「誰の縄張りで走ってる」
酒場が静まり返る。
男の顔色が変わる。
主は階段途中に立ったまま、 煙草を咥えている。
だが目だけが冷たい。
男は一瞬怯む。
その隙だった。
子供が転ぶ。
床へ倒れる。
追い付く。
男が腕を掴もうとした瞬間。
ログが横から突っ込んだ。
ドガッ!!
男が吹き飛ぶ。
酒場が揺れる。
ログは子供を庇うように前へ出た。
かなり格好良かった。
珍しく。
本人だけではなく。
男が舌打ちする。
「チッ……!」
ログは低く言う。
「ガキ追い回す趣味はねぇんだ」
ミナが少し目を見開く。
レオも黙る。
男はログを睨む。
そして、 主を見る。
数秒。
やがて男は低く吐き捨てた。
「……《鴉樽》、本当に噛む気か」
主は煙を吐く。
「うちでガキ追ったのお前だ」
男の顔が歪む。
酒場の空気が冷える。
常連達が静かに立ち上がっていた。
逃げ場は無い。
男は舌打ちし、 ゆっくり後ろへ下がる。
「覚えてろ」
ログが即答した。
「三下の台詞だな」
沈黙。
そして酒場爆笑。
「若造ぉぉぉ!!」
「今のは格好つけ過ぎだ!!」
「珍しく決まったぞ!!」
ログが顔をしかめる。
「うるせぇ!!」
空気が少しだけ戻る。
だが、 主だけは笑っていなかった。
その視線は、 怯える子供へ向いている。
地下街の夜は、 まだ終わっていなかった。
男が去った後も、酒場の空気は少し張っていた。
《鴉樽》の常連達は、 何も言わず子供を見る。
痩せていた。
服も汚れている。
地下街の子供だった。
だが、 普通の流れ者とも少し違う。
怯え方が酷い。
子供はログの外套を掴んだまま離さない。
ログが顔をしかめる。
「……おい」
子供がびくりと震える。
「いや怒ってねぇよ」
余計怖かった。
ミナが横から小さく言う。
「顔怖い」
「俺のせい!?」
酒場で笑いが起きる。
少しだけ空気が戻った。
レオがしゃがみ込み、 子供と目線を合わせる。
「名前は?」
返事は無い。
ただ、 子供の視線が主へ向いた瞬間、 また身体が強張る。
主は煙草を咥えたまま、 面倒臭そうに視線を逸らした。
「……俺見るな」
ミナがぼそりと言う。
「怖いから」
「お前も言うか」
ログが吹き出す。
主は舌打ちした。
その時。
子供が小さく呟く。
「……下」
酒場が静まる。
ログが顔を向ける。
「何だって?」
子供は震えながら、 もう一度言った。
「下から来た……」
冷たい空気が流れる。
レオの顔色が変わる。
主だけが静かだった。
だが煙草の火が、 短く揺れる。
ログはゆっくりしゃがみ込む。
今度は、 出来るだけ低い声をやめた。
「……誰に追われてた」
子供は唇を震わせる。
そして、 小さい声で言った。
「赤い灯り……」
酒場の空気が止まった。
常連達の顔から笑いが消える。
地下街の噂。
下の灯り。
戻らない人間。
全部が繋がり始める。
その中で、 ログだけがまだ理解し切れていなかった。
だから真っ先に口を開く。
「赤い灯りって何だよ」
主が低く言った。
「若造」
「……何だ」
「今夜はもう喋るな」
珍しく、 本気で止める声だった。




