第2章 東側の噂 ⑩
その夜、《鴉樽》は早く店を閉めた。
正確には、 表向き閉めた。
灯りを落とし、 入口を半分閉じる。
だが地下街では、 本当に閉まる酒場など無い。
必要な人間だけが残る。
水路側の通路には、 重い空気が漂っていた。
ログは見張りを続けながら、 妙に落ち着かなかった。
「……下の灯りって何だよ」
誰に聞くでもなく呟く。
ミナは壁際へ座ったまま、 膝を抱えている。
珍しく静かだった。
ログが顔を向ける。
「怖ぇのか」
ミナは少し黙る。
そして小さく言った。
「地下街の子、時々聞く」
「何を」
「“下へ連れて行かれる”って」
冷たい空気が流れる。
ログは顔をしかめた。
「脅しじゃねぇのか」
「分からない」
ミナは俯いたまま続ける。
「でも、帰って来ない子居る」
その時。
奥から主の声。
「若造」
ログが振り返る。
主は通路奥から歩いて来た。
煙草。
外套。
でも今夜は、 少しだけ疲れて見える。
ログが眉を寄せる。
「アンタでもそんな顔すんだな」
「殺すぞ」
「いつもの顔だった」
少しだけ空気が戻る。
主は壁へ寄りかかり、 水路側を見る。
「……東側、しばらく閉じる」
ログが顔をしかめる。
「そんなヤバいのか」
主は答えない。
代わりに、 小さく舌打ちした。
それだけで十分だった。
レオが奥から出て来る。
「俺も動く」
主が即答する。
「死ぬぞ」
「放っとけない」
ログが思わず吹き出した。
「アンタも大概馬鹿だな」
レオが少し笑う。
「下働きに言われたくない」
ミナが小さく吹き出した。
地下街の重い空気の中、 その笑いだけが少し浮く。
だが次の瞬間。
《鴉樽》の下――
酒場側から、 短い悲鳴が聞こえた。
全員の顔が変わる。
続いて。
ガシャン!!
何かが倒れる音。
そして、 常連の怒鳴り声。
「誰だテメェ!!」
主の目が一瞬で冷える。
地下街の夜は、 まだ終わっていなかった。




