第十四章 ⑤
北の街道の噂が《鴉樽》へ持ち込まれてから、数日が過ぎた。
兵が増えたという話も、商人の荷車が止められたという話も、相変わらず耳に入ってくる。北へ向かう商人は減り、代わりに西の街道を使う者が増えたらしい。
もっとも、酒場の常連たちにとっては、まだ遠い土地の出来事だった。
その日も夕方になると、仕事帰りの男たちが集まり、いつものように酒を飲み始めた。
「おい、ヴィク! 今日は勝てそうか?」
「今日は勝つ!」
「昨日も言ってたぞ!」
「昨日とは違うんだよ!」
札遊びの卓では、十一歳のヴィクが常連たちを相手に息巻いている。
ログは少し離れた席で煙草を吸いながら、その様子を眺めていた。
「お前ら、そろそろ一回くらい勝たせてやれよ」
「嫌だね。勝負は勝負だ!」
「そうだぞ、ログ! 手加減なんかいらねえ!」
「ほらな」
ログが笑うと、ヴィクは得意そうに胸を張った。
そこへ、扉が開いた。
「……おう」
入ってきたのは、いつも札遊びに混ざっている常連の一人だった。
先日、自分にも徴兵が来るかもしれないと冗談を言っていた男である。
「おう、遅かったな!」
「仕事か?」
男は返事をする代わりに、懐から一枚の紙を取り出した。
「……来たわ」
「何が?」
「徴兵」
卓を囲んでいた男たちの手が止まった。
「……は?」
「だから、徴兵だよ。今朝、役人が持ってきた」
男は紙をひらひらと振ってみせた。
しばらく誰も口を開かなかったが、やがて一人が苦笑した。
「おいおい、こないだの冗談が本当になったのかよ」
「俺も驚いたわ」
「いつ行くんだ?」
「三日後だと」
「三日!?」
「早えよなあ。仕事の引き継ぎもあるってのに」
男はいつもの椅子を引き、腰を下ろした。
「ミナ、酒くれ!」
「……はい。いつもの?」
「おう! 今日はちょっと多めにな!」
ミナは頷き、厨房へ向かった。
男は卓の上に徴兵の通知を置き、仲間たちを見回した。
「何だよ、そんな顔すんなって。すぐ戻ってくっからな」
「……そうだな」
「お前、兵隊なんて務まるのか?」
「務まるだろ! 荷物運びくらいならできる!」
「腹が邪魔で走れねえんじゃなかったか?」
「まだ言うか!」
男たちは笑った。
最初は少しぎこちなかった笑い声も、いつものやり取りが始まると次第に大きくなっていった。
「じゃあ、帰ってきたら一杯奢ってやるよ」
「一杯だけか?」
「欲張るな!」
「命懸けで働いてくるんだぞ!」
「まだ何もしてねえだろ!」
また笑い声が上がる。
ヴィクは卓の上に置かれた紙を見つめていた。
「おっちゃん、本当に兵隊になるのか?」
「おう。ちょっくら行ってくる」
「いつ帰ってくんだ?」
「さあな。そんなに長くはかからねえだろ」
「じゃあ、帰ってきたらまた札やろうぜ!」
「当たり前だ!」
男はヴィクの頭をわしわしと撫でた。
「それまでに腕を上げとけよ。帰ってきて負けたら格好つかねえからな!」
「次は俺が勝つ!」
「ははは! 楽しみにしてるぞ!」
ログはそのやり取りを聞きながら、煙草を灰皿に押しつけた。
「おい、無茶すんなよ」
「分かってるって!」
「お前、調子に乗ると周り見なくなるからな」
「お前にだけは言われたくねえ!」
常連たちが声を上げて笑った。
男は酒を飲み干すと、いつものように札遊びへ加わった。
その夜は、閉店近くまで騒ぎが続いた。
◇
三日後、男は出発した。
朝早くに集合することになっていたため、《鴉樽》で見送ったのは前の晩だった。
「じゃあな! 俺の席、取っとけよ!」
「おう! 帰ってきたら奢ってやる!」
「今度こそ二杯な!」
「分かったよ!」
男は笑いながら手を振り、店を出ていった。
翌日の夕方、いつもの卓には一つ空席があった。
「……あいつがいねえと、静かだな」
常連の一人が呟いた。
「うるせえ奴だったからな」
「帰ってきたら、また騒がしくなるさ」
「そうだな」
誰も、その椅子に座ろうとはしなかった。
だが、数日後には別の常連にも通知が届いた。
「おい、俺にも来たぞ!」
「お前もか!」
「どうなってんだ、いったい」
「知らねえよ。役人に聞いてくれ」
その男は仕事の都合をつけ、家族に話をし、決められた日に出発していった。
さらに数日が過ぎると、今度は二人まとめて呼ばれた。
「まさか俺まで呼ばれるとはなあ」
「お前、こないだ笑ってただろ」
「笑ってたよ! 冗談だと思ってたからな!」
常連たちは相変わらず軽口を叩いていたが、話題は少しずつ変わっていった。
北の街道がどうなっているのか。
どこへ集められるのか。
兵として何をさせられるのか。
誰も詳しいことを知らなかった。
分からないまま、通知に書かれた日に出発するしかなかった。
◇
月が替わる頃には、札遊びの卓を囲む顔ぶれが随分変わっていた。
いつも四人か五人で騒いでいた卓に、今夜は二人しか座っていない。
ヴィクは札を手にしたまま、空いている椅子を見た。
「……今日はやんねえの?」
「人数が足りねえんだよ」
「俺が入れば三人だろ」
「そうだな。ログでも呼ぶか」
「ログ!」
ヴィクが声を張り上げると、奥の席からログが顔を上げた。
「何だ?」
「札やろうぜ!」
「またかよ」
「人数足りねえんだ!」
ログは周囲を見回した。
以前なら、呼ばなくても誰かが勝手に椅子を持ってきたものだった。
今は、奥の卓にも空席が目立つ。
「……しょうがねえな」
ログは煙草を消し、立ち上がった。
「一回だけだぞ」
「よし!」
ヴィクは嬉しそうに札を配り始めた。
けれど、以前のように横から口を出す者はいない。
負けた男をからかう声も、次の勝負に混ざろうとする声も減っていた。
札が卓に置かれる音が、妙にはっきり聞こえた。
「……なあ、ログ」
「ん?」
「みんな、いつ帰ってくんだ?」
ログは手札から顔を上げた。
「さあな」
「まだ分かんねえの?」
「ああ」
「……そっか」
ヴィクは少し考えてから、札を一枚引いた。
「じゃあ、帰ってきたら全員と勝負しねえとな」
「そうだな」
「それまでに強くなっとく!」
ログは笑った。
「おう。負けっぱなしじゃ格好つかねえもんな」
「もう負けっぱなしじゃねえよ!」
「そうだったか?」
「この前、一回勝っただろ!」
「ああ、そうだったな」
常連の一人が笑いながら口を挟んだ。
「一回勝ったくらいで威張るなよ!」
「次も勝つ!」
「言ったな!」
久しぶりに、卓から大きな笑い声が上がった。
ミナは厨房からその声を聞き、空いた皿を片づける手を止めた。
以前なら、誰かの笑い声に別の誰かが応じ、店のあちこちで騒ぎが広がったものだった。
今夜は、その笑い声が収まると、また静かになった。
主はいつもの席で帳面を閉じ、客の少なくなった店内を見渡した。
椅子も卓も、何一つ変わっていない。
ただ、そこに座る人間が減っていた。
そして、その夜もログのもとに徴兵の通知が届くことはなかった。




