第十四章 ④
北の街道で兵が増えているという話は、それからも何度か《鴉樽》へ持ち込まれた。
最初のうちは、街道を通る商人たちが酒のついでにこぼす愚痴だった。軍の荷車が道を塞いでいるだの、宿屋に兵士が泊まっていて部屋が取れないだの、商売をする者にとっては迷惑な話ばかりである。
常連たちも、その程度なら珍しいことではないと聞き流していた。
軍が大きな演習を行えば、街道が混むこともある。物資の輸送に人手や荷車を取られることだって、これまでになかったわけではない。
ところが、ある日の夕方、北から戻った商人が少し違う話を持ち込んだ。
「いやあ、今回は参った。予定より五日も遅れちまったよ」
店に入ってきた男は、荷物を足元に置くと、椅子に腰を下ろして大きく息を吐いた。
「五日? 道でも崩れたのか?」
近くの常連が尋ねる。
「道は無事だ。通してもらえなかったんだよ」
「誰に?」
「兵隊に決まってるだろ。北へ向かう荷は調べるし、戻る荷まで止める。おかげで宿代ばかりかさんだ」
ミナが運んできた酒を受け取り、商人は一息に半分ほど飲んだ。
「しかも、国境に近い町じゃ、南へ戻る商人が減ってるらしい」
「何でだ?」
「知らん。向こうで足止めされてるのか、商売にならなくて引き返したのか。俺が聞いた話じゃ、国境を越える荷も随分減ってるそうだ」
常連の一人が眉を上げた。
「そりゃ困るな。北から来る品物だってあるだろ」
「だから困ってるんだよ。仕入れの約束をしてた連中なんか、頭を抱えてたぞ」
男は空になった杯を卓へ置き、追加の酒を頼んだ。
「それだけじゃねえ。宿屋の主人が言ってたんだが、ここしばらく兵の数が増え続けてるらしい。演習なら、そろそろ帰ってもよさそうなもんなのにな」
「……何か始まるのか?」
「さあな。俺は商人だ。兵隊の事情なんぞ知らんよ」
そう言いながらも、男の表情は冴えなかった。
北へ向かう道で見たことと、宿屋で聞いた話。そのどちらも、商売を続けるには気になるものだったのだろう。
「次の仕入れはどうするんだ?」
「しばらく北はやめとく。西へ回るつもりだが、同じことを考える奴が増えりゃ、あっちの値も上がるだろうな」
「やれやれ。軍が動くと、ろくなことがねえ」
常連がぼやくと、商人も苦笑した。
「まったくだ」
話を聞いていたログは、手元の杯を傾けた。
「北のどの辺りまで行ったんだ?」
「国境の手前、三つ目の町だよ。そこから先は行ってねえ」
「じゃあ、向こうで何が起きてるかは分からねえんだな」
「ああ。分かってりゃ、こんなところで愚痴ってねえよ」
「そりゃそうか」
ログは笑って、杯を置いた。
商人の話には気になるところもあったが、肝心の国境で何が起きているのかは誰にも分からない。
それ以上は、酒場でいくら話しても答えが出るものではなかった。
◇
「なあ、戦争でも始まるんじゃねえか?」
しばらくして、札遊びの卓からそんな声が上がった。
さっきの商人の話を聞いていた常連の一人が、手札を並べながら言い出したのである。
「おいおい、物騒なこと言うなよ」
「だってよ、国境に兵隊が集まってんだろ? 荷車まで持ってかれてるって話じゃねえか」
「演習だろ、演習」
「だったらいいけどな」
男は札を一枚引き、顔をしかめた。
「……ああ、駄目だ。今日も勝てねえ」
「お前、戦争の心配より自分の札を心配しろよ!」
卓を囲んでいた男たちが笑った。
ヴィクはその隣で、常連の手札を覗こうとしていた。
「おい、ヴィク! 見るな!」
「見てねえよ!」
「今、思いっきり覗いただろ!」
「見えなかったからいいだろ!」
「よくねえ!」
男が札を胸元へ引き寄せると、ヴィクは不満そうに口を尖らせた。
「俺も次、混ぜろよ」
「お前、昨日も負けてただろ」
「今日は勝つ!」
「毎日それ言ってんな!」
また笑い声が上がる。
その騒ぎに混じって、別の常連が口を開いた。
「戦争なんか始まったら、俺たちにも徴兵が来るんじゃねえか?」
「ははは! お前が兵隊?」
「何だよ、悪いか!」
「その腹で走れんのか?」
「走れるわ!」
「酒場から便所までが精いっぱいだろ!」
「うるせえ!」
男たちは腹を抱えて笑った。
「お前が連れてかれたら、俺も呼ばれるかもしれねえな」
「だったら二人で行こうぜ!」
「嫌だよ! お前と一緒じゃ、ろくなことにならねえ!」
「何だと!」
冗談は次々に広がり、いつの間にか、誰が一番兵隊に向いていないかという話になっていた。
ヴィクも面白がって口を挟む。
「俺なら走れるぞ!」
「お前はまだ十一歳だろ!」
「大人だって!」
「兵隊になりてえのか?」
「……兵隊って、何すんだ?」
「そりゃお前、偉い奴の言うこと聞いて、あっちこっち走り回るんだよ」
「じゃあ、やだ」
「何でだよ!」
「ログみたいに好きなことできねえじゃん!」
ログが酒を吹きそうになった。
「おい、俺を何だと思ってんだ!」
「好きなことしてる大人!」
「間違っちゃいねえな!」
常連たちがどっと笑い、ログもつられて笑った。
「まあ、俺は偉い奴の言うこと聞くのは苦手だけどな」
「ほら、やっぱり!」
ヴィクは得意そうに言った。
ミナが空いた皿を回収しながら、二人を見比べる。
「そういうところばっかり真似しないでちょうだい」
「俺のせいかよ!」
「他に誰がいるの?」
ログが言い返すより先に、常連たちから「お前だろ!」と声が飛んだ。
◇
夜が更ける頃には、北の街道の話もすっかり別の話題に押し流されていた。
札遊びの卓では勝った負けたの声が飛び交い、厨房ではミナが明日の仕込みを始めている。
ヴィクは結局、その夜も常連に勝てなかった。
「くそっ! 次は絶対勝つからな!」
「おう、何度でも相手してやるよ!」
「明日は逃げんなよ!」
「逃げるかよ!」
そんなやり取りをしながら、男たちは卓を片づけ始めた。
ログは椅子に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
少し離れた席では、主が帳面を閉じ、商人の置いていった荷の控えを眺めている。
「ログ」
ヴィクが近づいてきた。
「何だ?」
「戦争って、ほんとに始まるのか?」
「さあな」
「分かんねえの?」
「俺に聞かれてもな。国境まで見に行ったわけじゃねえし」
「ふうん」
ヴィクは少し考えたあと、ログの隣に腰を下ろした。
「じゃあ、まだ分かんねえんだな」
「そういうことだ」
ログは煙を吐き、ヴィクの頭を軽く撫でた。
「ほら、お前はもう寝ろ。明日も仕事だろ」
「まだ眠くねえよ」
「大人は明日のためにちゃんと寝るもんだぞ」
「ログだって起きてんじゃん!」
「俺は明日、寝坊できるからな」
「ずるい!」
ヴィクが文句を言うと、ログは声を上げて笑った。
奥の卓では、さっき徴兵の話をしていた男が、帰り支度をしながら仲間と笑い合っていた。
「じゃあ、また明日な!」
「おう! 次は負けねえぞ!」
「それ、昨日も聞いたぞ!」
扉が開き、男たちの笑い声が夜の通りへ流れていく。
いつもの夜だった。
誰かが徴兵されるかもしれないという話も、まだ笑って済ませられる程度のものだった。




