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第十四章 ③ 

 ヴィクが煙草に興味を持ったのは、別に今日が初めてではない。


 物心ついた頃から、ログも主も煙草を吸っていた。


 ログは常連たちと酒を飲みながら、主はいつもの席で帳面を眺めながら、それぞれ当たり前のように煙草に火をつける。細く立ち上る煙と独特の匂いは、ヴィクにとって《鴉樽》の日常の一部だった。


 ただ、十一歳になった今は、以前と少し見方が違う。


 酒を飲むのも、札で勝負するのも、煙草を吸うのも、大人がすることだ。


 酒は苦かった。


 札遊びでは、まだ常連たちに勝てない。


 だったら、煙草はどうだろう。


 そんなことを考えていた午後のことだった。


 主はいつもの席で帳面を広げていたが、厨房から声をかけられると、煙草を灰皿に置いて立ち上がった。


 ヴィクはその様子を見ていた。


 卓の上には、まだ短くなっていない煙草が一本。


 先端から細い煙が立っている。


 周囲を見回す。


 ミナは厨房。


 ログは常連たちと奥で話している。


 主の姿は見えない。


「……ちょっとだけ」


 ヴィクは卓へ近づいた。


 煙草を持ち上げると、主がいつもやっているように指で挟んでみる。


 何となく格好がいい。


 窓に映った自分の姿を確かめ、少し顎を上げた。


 これなら大人に見えるかもしれない。


 そう思って煙草を口へ運び、そっと吸い込んだ。


「げほっ!」


 喉の奥が焼けるような感覚に襲われた。


「ごほっ! げほっ、げほっ!」


 思わず煙草を口から離す。


 目に涙が浮かび、胸の奥までむせ返った。


「うえっ……何だよ、これ!」


「……何をしている」


 背後から声がした。


 ヴィクは固まった。


 ゆっくり振り返る。


 主が立っていた。


「…………」


「…………」


 主の視線が、ヴィクの手にある煙草へ落ちる。


「……煙が」


「煙が?」


「……目に入った」


 主はしばらくヴィクを見つめていた。


「口から出ていたぞ」


「…………」


 ヴィクは何も言えなくなった。


 主は煙草を取り上げ、灰皿に押しつけて火を消した。


「二度と触るな」


「……はい」


 ヴィクは素直に頷いた。


 主はそれ以上何も言わず、帳面を持って奥へ戻っていった。


 ヴィクは胸を撫で下ろした。


 今日は殴られなかった。


 そのことに安心したのも束の間だった。


「ヴィク?」


 聞き慣れた声がした。


 振り向くと、ミナが立っている。


「今、何をしていたの?」


「……何も」


「煙草の匂いがするけど?」


「……主のだよ」


「主はさっき厨房に来ていたわよ?」


「…………」


 ミナはヴィクの顔を覗き込んだ。


「目が赤いじゃない。まさか、吸ったの?」


「……一回だけ」


「ヴィク!」


 酒場に怒声が響いた。


     ◇


「で、今度は煙草か」


 話を聞いたログは、自分の煙草を指に挟んだまま、笑いをこらえていた。


「笑うなよ!」


「いや、だってお前……」


「何だよ!」


「酒の次は煙草って、忙しい奴だな!」


 ログが吹き出すと、近くの常連たちまで笑い始めた。


「おお、ヴィク! 今度は煙草か!」


「大人になりたくて仕方ねえんだな!」


「どうだった? うまかったか?」


「……まずかった」


「はははは!」


 ヴィクは不満そうに腕を組んだ。


「何でみんな、あんなもん吸ってんだよ」


「そりゃ、お前」


 ログが口を開きかけたところで、ミナが振り返った。


「ログ。余計なこと教えないでよ」


「まだ何も言ってねえだろ!」


「顔に書いてあるわよ!」


「ひでえな!」


 常連たちはまた笑った。


 ヴィクはログを見上げた。


「なあ、ログ」


「ん?」


「煙草って、大人になったらうまくなるのか?」


「人によるんじゃねえか?」


「ログは?」


「俺か? 俺はうまいと思って吸ってるぞ」


「じゃあ、何で俺はまずかったんだよ!」


「知らねえよ。お前が勝手に吸ったんだろ」


「……ちぇっ」


 ログは煙草を口に運び、ゆっくり煙を吐いた。


「それに、よりによって主の煙草に手を出すとはなあ」


「ログのだったらよかったのか?」


「よくねえよ。俺の煙草は俺のもんだ」


「ケチ!」


「そういう問題じゃねえだろ!」


 常連たちが笑った。


 ヴィクは納得のいかない顔で、ログの煙草を眺めた。


「じゃあ、俺はいつになったら吸っていいんだよ」


「大人になってからだな」


「俺、もう大人だって!」


「そうか? じゃあ大人のヴィクに頼みがあるんだが」


「何だよ」


「裏の薪、運んどいてくれ」


「……何で俺が?」


「大人なんだろ?」


 ヴィクは顔をしかめた。


 常連たちが声を上げて笑う。


「ほら、仕事だぞ!」


「立派な大人なら働かねえとな!」


「ちぇっ!」


 ヴィクはぶつぶつ言いながら立ち上がった。


 厨房へ向かう途中、ミナが声をかける。


「ヴィク、薪を運び終わったら、焼き菓子があるわよ」


 ヴィクは足を止めた。


「本当!?」


「ええ。今日、焼いたばかり」


「じゃあ、すぐ運んでくる!」


 勢いよく裏口へ駆けていく背中を、ログが見送った。


「……菓子には勝てねえな」


「誰かさんにそっくりね」


 ミナが言うと、ログは煙草を灰皿に置いた。


「誰のことだよ」


「さあ?」


 常連たちがまた笑った。


 その笑い声の中、主は新しい煙草を取り出しかけ、ふと手を止めた。


 裏口の向こうから、ヴィクが薪を積み直す音が聞こえてくる。


 主は煙草を箱へ戻し、帳面の続きを読み始めた。

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