第十四章 ⑥
《鴉樽》から常連たちが減り始めて、ひと月ほどが過ぎた。
北の国境で軍が衝突したという知らせが届き、王国は兵の動員をさらに進めていた。街道を行き来する商人たちの話も、今では戦況や物資の不足に関するものが多い。
夕方になれば客は入るものの、以前のように卓を囲んで騒ぐ声は減っていた。
その日、ログはいつもの席で煙草を吸いながら、徴兵の通知を受け取った常連たちの話を聞いていた。
「お前には、まだ来ねえのか?」
「何が?」
「徴兵だよ」
「来てねえな」
「おかしいよなあ。俺より若いくせに」
「知らねえよ。役人に聞いてくれ」
ログが答えると、男は肩をすくめた。
「まあ、来ねえなら来ねえでいいさ。ヴィクもいるしな」
そのヴィクは、厨房でミナの手伝いをしていた。
店の客が減った分、仕事も以前ほど忙しくはない。それでもヴィクは毎日、皿を運び、薪を積み、時には常連たちの相手をしていた。
空いた席を見ては、帰ってきたらまた札遊びをすると言っている。
ログも、そうなればいいと思っていた。
そこへ、店の扉が開いた。
「……久しぶりだな」
聞き覚えのある声だった。
ログが顔を上げると、入口に立っていたのは王太子だった。
以前と同じような旅装をしているが、今日は護衛の数が多い。
「おう。随分久しぶりじゃねえか」
「ああ。なかなか時間が取れなくてな」
「そりゃそうだろうよ」
ログは空いている椅子を顎で示した。
「座るか?」
「いや、今日は話がある」
「何だよ。酒も飲まずに帰る気か?」
王太子はわずかに笑ったが、すぐに表情を戻した。
「ログ。お前に軍へ来てもらいたい」
ログは煙草を口から離した。
「……は?」
「兵をまとめる役目だ。前線の指揮官を補佐し、現場の者たちを動かしてほしい」
「何で俺なんだよ」
「お前なら、人を見て判断できる。兵たちの間に入って、必要なことを考えられるはずだ」
「買いかぶりだろ」
「そうは思わない」
王太子はログをまっすぐ見た。
「お前には軍で働いてもらう価値がある」
ログは少し考え、煙草を灰皿に置いた。
「悪いが、断る」
「……理由を聞いても?」
「命令されるのが嫌いなんだよ」
「それだけか?」
「それだけで十分だろ」
王太子は黙った。
ログは肩をすくめる。
「兵隊が足りねえってんなら、俺だって何もしねえとは言ってねえ。ただ、軍の中で偉い奴の言うこと聞いて動くのは御免だ」
「今は国が危機にある」
「だからって、俺が軍に入らなきゃならねえ理由にはならねえだろ」
王太子は一度、息を吐いた。
「……お前に徴兵の通知が届いていないのは、私が止めていたからだ」
「は?」
ログの眉が動いた。
「何だ、そりゃ」
「通常の徴兵ではなく、私から正式に役目を与えるつもりだった」
「勝手なことすんなよ」
「お前の能力を無駄にしたくなかった」
「俺のことは俺が決める」
ログの声は荒くなかったが、はっきりしていた。
王太子もそれ以上、すぐには言葉を返さなかった。
そのときだった。
「無能だな」
低い声が、店の奥から聞こえた。
主だった。
いつもの席に座り、帳面を閉じたところだった。
王太子が顔を向ける。
「……何?」
「無能だと言った」
護衛の一人が前へ出かけた。
王太子は片手を上げて制した。
「誰に向かって言っているか、分かっているのか」
「分かっている」
主は椅子から立ち上がることさえしなかった。
「だから無能だと言った」
「……貴様」
王太子の表情が険しくなる。
「王国がどのような状況にあるか、知っての発言か」
「知っている」
「ならば、なぜそのようなことが言える!」
「だから無能なんだ。怒りたいのは国民であって、貴様らじゃない」
店内が静まり返った。
王太子は主を睨んだまま、低い声で答えた。
「我々とて、望んで戦を始めたわけではない。国境を脅かされ、民の暮らしを守るために決断したのだ」
「民の暮らしを守るために、その民を戦へ送り出したのか」
「侵攻を許せば、さらに多くの民が犠牲になる。それを防ぐのが王家の務めだ」
王太子の言葉に迷いはなかった。
主はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「民あっての国だ。民を失って、何を守る」
王太子の表情がわずかに変わった。
「……民を守るために、戦わねばならぬ時もある」
「それは否定せん」
主は静かに答えた。
「だが、戦うと決めた者と、戦わされる者は違う。貴様らが下した決断のために、ここにいた者たちは家族を残して出ていった」
主の視線が、空いた卓へ向いた。
王太子も、つられるようにそちらを見る。
かつて自分も札遊びに加わった卓だった。
酒を奢ってくれた商人も、勝負に負けて騒いでいた男たちも、今はそこにいない。
「……承知している」
「ならば、その重さを忘れるな」
主は王太子へ視線を戻した。
「国を守るという言葉で、民の犠牲を当然にするな。戦を選んだのなら、失われる命の責任から目を逸らすな」
王太子は唇を結んだ。
「そして、民が苦しんでいる場所で、自分が侮辱されたことに腹を立てるな」
護衛たちは動かなかった。
主はそれ以上何も言わず、帳面を開き直した。
王太子はしばらく空いた席を見つめていた。
ログは煙草を指に挟んだまま、その様子を眺めていたが、やがて口を開いた。
「……まあ、そういうことだ」
王太子が顔を上げる。
「ログ」
「俺も、戦争なんぞ好きじゃねえ。常連たちだって、好きで行ったわけじゃねえだろ」
「分かっている」
「だったら、俺に命令するより先に、あいつらを無事に帰すことを考えてくれよ」
王太子はすぐには答えなかった。
ログは少し間を置いてから、言った。
「俺は俺のやり方で動く」
「……どうするつもりだ」
「義勇軍があるだろ。あっちに加わる」
「義勇軍では、十分な支援を受けられない可能性がある」
「それでもいい」
「お前なら、正規軍で――」
「断るって言っただろ」
ログは立ち上がった。
「俺は、俺が納得できるところで働く。それだけだ」
王太子はログを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かった」
以前なら、ここで酒を一杯飲み、常連たちに混ざって札遊びを始めたかもしれない。
だが、今夜の王太子は椅子に座ることもなく、踵を返した。
「ログ。無事でいろ」
「そっちもな」
扉が閉まった。
しばらくして、厨房からヴィクが顔を出した。
「……今の、お菓子の兄ちゃん?」
「ああ」
「何しに来たんだ?」
「仕事の話だよ」
「ふうん。菓子は?」
「今日はねえみたいだな」
「ちぇっ」
ログは笑ったが、すぐにヴィクの顔を見た。
「なあ、ヴィク」
「何だよ」
「俺もちょっと、出かけてくることになりそうだ」
ヴィクは目を丸くした。
「どこに?」
「北の方だ」
「……兵隊?」
「まあ、似たようなもんだな」
「いつ帰ってくんだ?」
ログは答えるまでに、少し時間がかかった。
「なるべく早く帰るよ」
「絶対だぞ」
「おう」
ヴィクはログの袖を掴んだ。
「帰ってきたら、札やろうぜ」
「いいぞ」
「今度こそ俺が勝つからな!」
「ははは! 楽しみにしてる」
ログはヴィクの頭を撫でた。
店の奥では、主が静かに帳面をめくっている。
ミナは厨房から二人のやり取りを見ていたが、何も言わなかった。
数日後、ログは義勇軍へ加わるため、《鴉樽》を出発した。




