第十四章 ①
七年が過ぎた。
《鴉樽》の夕暮れは、相変わらず騒がしい。
仕事を終えた男たちが次々と扉を開け、卓を囲んで酒を飲む。厨房からは肉の焼ける匂いが漂い、ミナが空いた皿を片づけながら、追加の注文を受けていた。
「ヴィク! そっちの皿、下げてちょうだい!」
「分かってる!」
十一歳になったヴィクは、両手に皿を重ねて厨房へ運んだ。
背も伸び、以前のようにログの膝へよじ登ることもなくなった。本人に言わせれば、もう立派な大人の仲間入りを果たしているらしい。
ただし、周囲の評価は少し違っていた。
「おう、ヴィク。今日も働いてるな!」
「当たり前だろ!」
「そりゃ頼もしい。じゃあ、こっちの酒も頼むわ!」
「おう!」
ヴィクは勢いよく返事をしてから、ミナを振り返った。
「ミナ! 酒、二つ!」
「はいはい。運ぶときはこぼさないでよ!」
「分かってるって!」
常連たちが笑った。
「すっかり一人前じゃねえか!」
「だから、もう子供じゃないって!」
「そうかそうか!」
笑われていることが少し気に入らなかったが、ヴィクは胸を張って酒を運んだ。
その卓では、男たちがいつものように札遊びを始めていた。
「ヴィク、お前も一杯どうだ?」
常連の一人が杯を持ち上げる。
「おい、やめとけ。ミナに怒られるぞ!」
「冗談だよ、冗談!」
男たちは笑った。
ヴィクは杯を見た。
いつも大人たちがうまそうに飲んでいる酒だ。
ログも飲むし、常連たちも飲む。王宮から来ていたあの兄ちゃんだって、よく飲んでいた。
何がそんなにうまいのか、前から気になっていた。
「……ちょっとだけなら」
「あ?」
常連が聞き返したときには、ヴィクは卓に置かれた杯へ顔を近づけていた。
ほんの少し、舌先で酒を舐める。
「うわっ! にがっ!」
次の瞬間。
ごつん!
「いってえ!」
後ろから拳骨が落ちた。
振り返ると、主が立っていた。
「何してる」
「……味見」
「酒をか」
「ちょっとだけだろ!」
主はヴィクを見下ろした。
「次はないぞ」
「……はい」
ヴィクは頭を押さえた。
そこへ、騒ぎを聞きつけたミナがやって来た。
「ヴィク!」
「……はい」
「何をしたの?」
「ちょっと酒を……」
「何歳だと思ってるの!」
「十一歳」
「分かってるなら飲まない!」
「飲んでない! 舐めただけ!」
「同じこと!」
ミナは腰に手を当て、ヴィクを正面から見据えた。
「お酒は大人になってから! それに、お客さんの杯に勝手に口をつけるなんて、失礼でしょう!」
「……うん」
「お腹を壊したらどうするの!」
「舐めただけだって……」
「ヴィク!」
「ごめんなさい!」
常連たちは笑いをこらえながら、顔をそむけていた。
「おい、お前が勧めたんだろ」
「冗談だったんだよ!」
「主に殴られなくてよかったな!」
「しっ! 聞こえるだろ!」
そのやり取りを聞きつけたログが、奥から顔を出した。
「何だ、騒がしいな」
「ログ!」
ヴィクが助けを求めるように振り返った。
「主に殴られた!」
「何したんだ?」
「酒、ちょっと舐めただけ!」
「へえ」
ログはヴィクの頭を見た。
「痛かったか?」
「痛えよ!」
「そりゃ、見つかるところで飲むからだろ」
「……え?」
「次は隠れて飲めよ」
「ログ!!」
ミナの怒声が飛んだ。
ログは声を上げて笑った。
「冗談だって!」
「冗談でも教えないで!」
「分かった、分かった!」
ヴィクは頭をさすりながら、ログを睨んだ。
「ログ、笑ってる場合じゃねえだろ!」
「だってお前、苦かったんだろ?」
「……苦かった」
「じゃあ、もう飲まねえな」
「……」
「何だ、その顔」
「大人になったら、うまくなるかもしれねえだろ」
ログはまた笑った。
「そりゃ楽しみだな!」
常連たちもつられて笑い出した。
ヴィクは不満そうに口を尖らせたが、ミナに皿を運ぶよう言われると、素直に厨房へ向かった。
◇
騒ぎが収まった頃、街道を行き来している商人が店に入ってきた。
「おう、久しぶり!」
「おお! しばらく見なかったな!」
常連たちが声をかけると、商人は疲れた様子で椅子に腰を下ろした。
「いやあ、参った。北の街道が混んでてな」
「何かあったのか?」
「兵隊だよ。やたらと増えてる」
「兵隊?」
「ああ。荷車も何台か止められた。軍の物資を運ぶんだとさ」
男たちが顔を見合わせた。
「また演習でもやってんのか?」
「さあな。国境の方が騒がしいって話も聞いたが」
商人は酒を一口飲んだ。
「しばらく北へ行くのはやめといた方がいいかもしれん」
「物騒だなあ」
「まったくだ」
常連たちはそれぞれ杯を持ち上げ、別の話題へ移っていった。
ログは厨房から戻ってきたヴィクを呼び止めた。
「おい、ヴィク」
「何だよ」
「頭、まだ痛むか?」
「もう痛くねえよ!」
「そうか。じゃあ、こっちの皿も運んでくれ」
「自分で運べよ!」
「大人なんだろ?」
「……分かったよ!」
ヴィクは皿を受け取り、胸を張って歩き出した。
その背中を見ながら、ログは笑った。
《鴉樽》には、いつもの笑い声が満ちていた。
北の街道で兵が増えているという話も、この夜はまだ、酒の肴の一つに過ぎなかった。




