第十三章 ⑤
王太子が《鴉樽》の扉を開けたのは、関所の調査が始まってから十日ほど経った頃だった。
「おう、兄ちゃん!」
入ってすぐ、奥の卓から声が飛んできた。
声の主は、以前、関所で余計な金を取られたとぼやいていた荷運びの男だった。
「ちょうどよかった! こっち来いよ!」
王太子は帽子を取ると、いつもの席へ向かいかけた足を止めた。
「私か?」
「ほかに誰がいるんだよ!」
男は隣の椅子を引いた。
「まあ座れって!」
王太子は護衛と一瞬顔を見合わせたが、面白そうに笑って腰を下ろした。
「何かあったのか?」
「あったも何も、この前の関所の件だよ!」
男は卓を叩いた。
「王都から調査官が来てな。俺たちにも話を聞いてくれたんだ。払った金のことも、荷車のことも、ちゃんと聞いてくれた!」
「それはよかった」
「しかも、徴収札まで調べてくれたんだぞ。今まで役所に文句を言っても、まともに取り合ってもらえなかったのにな!」
王太子は頷いた。
「そうか。調べてもらえたのなら何よりだ」
「でな!」
男は勢いよく手を上げた。
「今日は俺が奢る!」
「……私に?」
「おう! あんたが話を聞いてくれたおかげかもしれねえからな!」
近くの卓で飲んでいた常連が、口元を押さえた。
その隣の男は、慌てて杯を持ち上げて顔を隠した。
王太子はそんな様子には気づかず、嬉しそうに笑った。
「それはありがたい。では、一杯いただこう」
「よし! ミナ! 酒二つ!」
「はーい!」
厨房から顔を出したミナは、王太子と荷運びの男を見比べた。
「……二つね!」
少し笑いをこらえた声だった。
護衛は王太子の背後で、何とも言えない顔をしていた。
◇
「それで、余計に払った金は戻ってきたのか?」
王太子が尋ねると、男は首を振った。
「いや、まだだ。調査が終わってからだとよ」
「そうか」
「でもな、ちゃんと調べてくれるってだけでも違うもんだ」
男は運ばれてきた酒を王太子の前へ押し出した。
「俺たちが何言っても、今までは決まりだからの一点張りだったんだ。それが今回は、何があったか聞いてくれた」
「……なるほど」
「兄ちゃんも商売やるなら、ああいう関所には気をつけろよ!」
「ああ。覚えておこう」
王太子は杯を掲げた。
「では、いただく」
「おう! 飲め飲め!」
二人が杯を合わせると、周囲の常連たちがとうとう笑い出した。
「何だよ、お前ら!」
荷運びの男が振り返る。
「いやあ、いい話だなと思ってよ!」
「そうだろ!」
「兄ちゃん、いい酒奢ってもらったな!」
「ああ。実にうまい」
王太子がそう答えると、また笑い声が上がった。
事情を知らない男は、ますます上機嫌になっていた。
◇
しばらくして、ログがヴィクを連れて戻ってきた。
ヴィクは片手に小さな木の玩具を握り、もう片方の手でログの服を掴んでいた。
「お、来てたのか」
「ログ!」
王太子が振り返った。
「今日は酒を奢ってもらったぞ」
「へえ。よかったじゃねえか」
「この前の関所の男だ」
「ああ、あいつか」
ログは荷運びの男を見た。
「よかったな、話聞いてもらえて」
「おう! まだ金は戻ってねえけどな!」
「そのうち戻るだろ」
「そう願いたいねえ!」
男は笑って杯を空けた。
ヴィクが王太子を見上げた。
「おかしのひと!」
「おお、ヴィク。元気だったか?」
「うん!」
「今日は土産があるぞ」
王太子は護衛から包みを受け取った。
ヴィクの目が輝く。
「おかし?」
「ああ。王宮の料理人が焼いた菓子だ」
「やった!」
ログが包みを覗き込んだ。
「お、今日は何だ?」
「お前も食べる気か?」
「余ったらな」
「毎回そう言うではないか」
「余るかもしれねえだろ」
王太子は笑いながら包みを渡した。
ヴィクは大事そうに抱え、ミナのところへ見せに走っていった。
「ミナー! おかし!」
「よかったねえ、ヴィク!」
「ログにもあげる!」
「はいはい。じゃあ、あとでお皿に出そうね」
その様子を見て、王太子は満足そうに酒を飲んだ。
「まったく、お前たちは変わらんな」
「そうか?」
「ああ」
ログは椅子を引いて座った。
「お前も変わんねえじゃねえか」
「私が?」
「来るたびに酒飲んで、飯食って、菓子持ってくる」
「……それだけ聞くと、ずいぶんな言われようだな」
「違うのか?」
「いや、違わんな」
二人は笑った。
◇
その夜は、いつも以上に店が賑やかだった。
荷運びの男が関所の調査について何度も話し、別の常連が昔の街道で遭遇した妙な役人の話を始めた。
王太子はそのたびに質問を挟み、話が脱線すると一緒になって笑った。
やがて札遊びが始まり、王太子も誘われた。
「兄ちゃん、今日は負けるなよ!」
「前回は勝ったぞ」
「最後の一回だけだろ!」
「勝ちは勝ちだ」
「言うじゃねえか!」
卓を囲んだ男たちが笑い、ミナが空いた皿を片づけていく。
ヴィクは菓子を食べ終えると、ログの膝に乗って札を覗き込んだ。
「ログ、それ!」
「おい、教えんな!」
「だって、それがいい!」
「ヴィク、俺の札は見えてねえだろ」
「見える!」
「見えねえって!」
常連たちがまた笑った。
王太子も腹を抱えていた。
「お前たち、本当に面白いな!」
「兄ちゃんも大概だぞ!」
誰かがそう言うと、王太子はますます笑った。
◇
夜も更け、王太子が帰る頃には、ヴィクはすっかり眠っていた。
ログはヴィクを抱き上げ、店の入口まで見送った。
「今日は楽しかった」
王太子が帽子をかぶりながら言った。
「いつも言ってんな、それ」
「いつ来ても楽しいからな」
「じゃあ、また来いよ」
「ああ。また寄らせてもらう」
「今度も菓子な」
「分かっている!」
王太子は笑った。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「ログ」
「ん?」
「お前と話していると、私の知らぬことがまだまだあると思い知らされる」
「そりゃ、知らねえことなんか誰にでもあるだろ」
「……そうだな」
「俺だって王宮のことなんか知らねえし」
「知りたいとは思わんのか?」
「別に」
王太子は苦笑した。
「相変わらずだな」
「おう」
ログは眠っているヴィクを抱え直した。
「じゃあな」
「ああ。また会おう」
王太子は護衛を伴い、夜の通りへ歩き出した。
ログはその背中を見送ってから、店の中へ戻った。
「帰ったの?」
ミナが尋ねた。
「おう」
「今日も楽しそうだったね」
「そうだな」
ログはヴィクを寝かせに奥へ向かった。
店では、まだ常連たちが酒を飲んでいた。
「おい、次は俺が勝つぞ!」
「さっきもそう言って負けたじゃねえか!」
「今度こそだ!」
笑い声が上がる。
ミナが追加の酒を運び、誰かが椅子を引き寄せた。
いつもと変わらない《鴉樽》の夜だった。
王太子が次に来るのはいつか。
そんなことを気にする者は、誰もいなかった。




