第十三章 ③
王太子が《鴉樽》へ顔を出すようになってから、店には少しばかり変わったことが起きていた。
最初のうちは、王太子が来るたびにミナが固まり、正体を知った常連たちまで妙に静かになった。
もっとも、それも長くは続かなかった。
三度目の来店で、王太子は常連の札遊びに巻き込まれた。
四度目には、隣の卓で酔った男がひっくり返した酒を浴びた。
そして五度目。
「おい、兄ちゃん。そこ座るなら椅子持ってきてくれ」
「ああ、分かった」
王太子は何の疑問も抱かず、壁際から椅子を運んできた。
護衛が何か言いかけたが、王太子は片手を上げて制した。
もはや店の客の大半は、彼を王太子として扱っていない。
もっとも、正体を知っている者は限られていたし、知っていても本人が気にしないので、次第にどうでもよくなってきたというのが正しい。
「おい、ログ」
「ん?」
「お前んとこの王子、また来たぞ」
「俺んとこのじゃねえよ」
ログはヴィクの口元についた芋を拭いながら答えた。
「おお、来たか」
「来たぞ」
王太子はいつもの席に腰を下ろした。
「今日は何がある?」
「肉の煮込みと魚の焼いたやつ」
「では魚にしよう」
「酒は?」
「いつものを」
ログが厨房へ向かって声をかけると、ミナが顔を出した。
「はいはい! 魚と酒ね!」
王太子は笑った。
「すっかり覚えられたな」
「そりゃ何回も来てりゃな」
「王宮では、何を頼んでも先回りして用意される」
「便利じゃねえか」
「便利だが、たまには自分で選びたい」
「じゃあ魚で正解だな」
「なぜだ?」
「今日の魚、でかいぞ」
王太子は声を上げて笑った。
◇
食事が運ばれてくるまでの間、王太子は隣の卓で交わされている話に耳を傾けていた。
「だからよ、荷を積んでから言われても困るんだって」
「通行料が上がったんだろ?」
「違う。通行料は同じだ。荷車の車輪が規定より広いから、別に金を払えって話だ」
「何だそりゃ」
「俺が聞きてえよ」
荷運びの男が酒を飲み干した。
「去年は何も言われなかったんだぞ。車輪だって替えてねえ」
王太子は杯を置いた。
「その話、少し聞いてもよいか」
男が振り返った。
「あん?」
「車輪の幅で金を取られたというのは、どこの関所だ?」
男は王太子を見た。
「兄ちゃん、商人か?」
「まあ、そんなところだ」
「だったら気をつけな。西へ抜ける街道の、川を渡った先だ」
「橋の向こうか」
「そうそう。あそこで荷を止められた」
「領主の徴収か?」
「さあな。札は出してたが、こっちは文字を読む暇もねえし」
王太子はさらにいくつか尋ねた。
通った日、支払った金額、ほかにも止められた荷車があったか。
男は最初こそ面倒そうにしていたが、話すうちに腹が立ってきたらしい。
「こっちは仕事で走ってんだ。止めるなら止めるで、先に知らせてくれりゃいいんだよ!」
「なるほど」
「兄ちゃんもあっち通るなら気をつけろよ」
「ああ。助かった」
王太子は礼を言って席へ戻った。
ログが焼いた魚をつついている。
「何だ、商人になったのか?」
「少し話を聞いただけだ」
「ふうん」
「お前は、ああいう話を聞いても驚かんのだな」
「何が?」
「関所で勝手に金を取られる話だ」
「ああ。たまに聞くぞ」
「たまに?」
「荷運びの連中なんか、よく文句言ってる」
王太子は考え込んだ。
「……報告に上がってこないものだな」
「そりゃ、あいつら王宮に報告しねえだろ」
「役所には届けられるはずだ」
「届けてる暇があるなら、次の荷を運ぶんじゃねえか?」
王太子が顔を上げた。
ログは魚の骨を皿の端へ寄せながら続けた。
「仕事休んで役所に行って、話聞いてもらって、それで金が返ってくるのか?」
「不当な徴収なら、調べることはできる」
「どれくらいかかる?」
「内容による」
「じゃあ、その間は?」
「……」
「荷を運ばなきゃ飯食えねえだろ」
ログはそう言って、ヴィクの皿に魚の身を取り分けた。
「ほら、骨あるから気をつけろよ」
「うん」
王太子はしばらく二人を眺めていた。
「お前は、ずいぶん簡単に物を言うな」
「またそれかよ」
「いや、褒めている」
「そうか?」
「ああ」
王太子は笑った。
「私は制度をどう直すか考える。お前は、その制度を使う者が何に困っているかを先に考える」
「そりゃ困ってるって言ってんだからな」
「……そうだな」
王太子は杯を持ち上げた。
何かを思いついたようだったが、それ以上は口にしなかった。
◇
しばらくすると、ヴィクが眠そうに目をこすり始めた。
「ログ……」
「眠いか?」
「ねむくない」
「そうか」
そう答えた直後、ヴィクは大きなあくびをした。
ログが笑う。
「寝ていいぞ」
「まだ……」
言い終わらないうちに、ヴィクの頭がこくりと揺れた。
ログは慣れた手つきで抱き上げ、自分の膝に座らせた。
ヴィクはそのままログの胸に顔を埋めた。
王太子はその様子を見ていた。
「よく懐いているな」
「そりゃ、ずっと一緒だからな」
「母親は?」
ログの手が一瞬止まった。
「いねえよ」
「……そうか」
「生まれたばっかの頃に死んだ」
王太子はそれ以上尋ねなかった。
ログはヴィクの背中を軽く叩きながら、残っていた酒に手を伸ばした。
「こいつ、昔は夜中によく泣いてなあ」
「今は泣かんのか?」
「泣くぞ。嫌な夢見たときとか」
「そういうものか」
「お前んとこは?」
「何がだ?」
「子供」
王太子は少し驚いた顔をした。
王宮の外で、自分の家族についてそんな聞き方をされることは滅多にない。
「いるぞ」
「そうか。じゃあ分かるだろ」
「いや、夜泣きの世話は、ほとんど妻や乳母に任せていた」
「何だよ。もったいねえな」
「もったいない?」
「小せえうちなんか、すぐ終わっちまうぞ」
ログはヴィクの髪を撫でた。
「この前まで抱っこしなきゃ飯も食えなかったのに、今じゃにんじん残して文句言うんだからな」
「ログもきらい……」
眠っていると思ったヴィクが、小さく呟いた。
「お前、まだ起きてたのか」
「……きらい」
王太子が吹き出した。
「にんじんが嫌いなのか?」
「おう」
「親子揃って?」
「そうだよ。悪いか」
「いや、実に仲がよい」
ログは少し不満そうにしたが、ヴィクが寝息を立て始めると、声を落とした。
「お前も、たまには子供と飯食ってやれよ」
「……そうだな」
王太子は静かに頷いた。
◇
その夜、王太子が帰る頃には、店の客もだいぶ減っていた。
ログは眠ったヴィクを抱いたまま、入口まで見送った。
「じゃあな」
「ああ。また来る」
「今度は菓子持ってこいよ」
「毎回それだな!」
「ヴィクが楽しみにしてるんだよ」
「分かった、分かった」
王太子は笑いながら帽子をかぶった。
その横で護衛が小さく頭を下げる。
店を出る直前、王太子が振り返った。
「ログ」
「ん?」
「お前は、王宮へ来たいとは思わんのか?」
「何で?」
「今日のような話を、もっと聞かせてもらいたいと思ってな」
「ここで聞けばいいだろ」
「……確かにな」
「酒もうまいし」
「それもそうだ」
王太子は扉を開けた。
「では、またな」
「おう」
夜の通りへ出ると、護衛がそっと声をかけた。
「殿下。今夜のお話は、明日お調べになりますか」
「関所の件か?」
「はい」
「ああ。徴収の根拠と、最近の変更を確認させよう」
「承知しました」
王太子は少し歩いてから、ふと笑った。
「面白い男だな」
「ログ殿でございますか」
「ああ。私が何を考えているかなど、まるで気にしておらん」
「……そのようでございますね」
「だが、あの男の言うことには、時々考えさせられる」
護衛は黙って聞いていた。
「役所に訴える暇があるなら、次の荷を運ぶ、か」
王太子は夜の街道を見やった。
「なるほどな」
◇
一方、《鴉樽》では。
ログがヴィクを寝台へ運んで戻ってくると、常連の一人が杯を掲げた。
「おい、ログ。また菓子ねだったんだって?」
「おう。今度は持ってくるってよ」
「ははっ! 王子様を菓子屋にする気か!」
「俺が食うんじゃねえぞ。ヴィクのだ」
「分かってるよ。で、お前の分は?」
「……あれば食う」
「ほら見ろ!」
隣の卓からも笑い声が上がった。
「次は何をねだるんだ? 王宮の料理か?」
「いや、こっちの飯の方がうまいって言ってたぞ」
「おお、そりゃ大したもんだ!」
厨房からミナが顔を出した。
「ちょっとログ! 王子様に変なこと吹き込んでないでしょうね!」
「何も言ってねえよ」
「本当に?」
「魚がでかいって言っただけだ」
「それは本当だからいいけど!」
常連たちがまた笑った。
ログは椅子に腰を下ろし、残っていた酒を飲んだ。
「そういや、あいつ、ここの飯がうまいって言ってたな」
「そりゃそうだろ。主の店だぞ」
「今度、王宮に持ってってやるか」
常連が目を丸くした。
「王宮に?」
「おう」
「お前、今度は王宮で飯屋でも始める気か?」
「何でそうなるんだよ!」
「菓子もらって、飯持ってって、次は何だ? 店ごと引っ越すか?」
「やだよ。ここにヴィクがいるだろ」
「ははは! そりゃそうだ!」
ミナが厨房から笑いながら声をかけた。
「持っていくなら、ちゃんと主に相談しなさいよ!」
「分かってるって!」
ログは杯を置いた。
王太子が何を考えているのか、ログにはよく分からない。
ただ、話していて面白い男だとは思っていた。
それに、菓子もくれる。
「いい奴じゃねえか」
「お前のいい奴の基準、菓子なのかよ!」
常連の声に、店中が笑った。




