第十三章 ②
王太子が《鴉樽》を訪れたのは、ログが王宮から菓子を持ち帰って五日ほど経った夕方のことだった。
その日も店はいつもどおり賑わっていた。
仕事を終えた者たちが酒を飲み、奥の卓では常連たちが札遊びをしている。厨房からは焼いた肉の匂いが漂い、客の笑い声に混じって、皿を運ぶミナの声が響いていた。
ログは壁際の席で、ヴィクと一緒に夕飯を食べていた。
「ログ、これ」
「ん?」
「にんじん」
「食えよ」
「いらない」
「俺もいらねえ」
「ログも?」
「おう」
向かいの席にいた鴉樽の古参が呆れた顔をした。
「お前ら、二人揃って何やってんだ」
「にんじん嫌いなんだよ」
「子供の前で堂々と言うな」
古参はヴィクの皿を見た。
「肉ばかり食わんで、野菜も食え」
「……ログも?」
「ログもだ」
「ええー」
ログとヴィクが揃って不満そうな声を上げたところで、店の扉が開いた。
入ってきたのは、旅装に近い地味な上着を着た若い男だった。
帽子を深くかぶり、後ろには同じような服装の男が一人ついている。
見慣れない客だったが、《鴉樽》では珍しいことではない。
「いらっしゃい!」
ミナが声をかけた。
「二人かい?」
「ああ。席は空いているか」
「そっちなら空いてるよ。何にする?」
「まずは酒を」
「分かった!」
男は店内を見回した。
そして、壁際に座るログを見つけると、口元を緩めた。
「いたいた」
ログも顔を上げた。
「……あれ?」
男が帽子を少し持ち上げる。
「久しいな」
「おお! 菓子の兄ちゃん!」
店内の何人かが振り返った。
男の後ろにいた護衛が、盛大にむせた。
「……菓子の兄ちゃん?」
王太子が聞き返す。
「おう。あの菓子、ヴィクが喜んだぞ」
「それはよかった」
「また持ってきたのか?」
「今日は持ってきていない」
「何だよ」
「私は菓子屋ではないぞ」
ログは笑った。
「まあ、座れよ」
王太子は遠慮なくログたちの卓へ近づいた。
鴉樽の古参が少し腰を浮かせる。
「……おい、ログ。この方は」
「ああ、こないだ会った王子」
古参の動きが止まった。
「……王子?」
「おう。次の王様」
王太子は口元に指を当てた。
「今日は内緒で来ている。普通の客として扱ってくれ」
古参は一度目を閉じた。
それからログを見た。
「お前な……」
「何だよ」
「いや。もういい」
王太子は笑いながら椅子を引いた。
「ここでは、ただの客だ。気にせず飲ませてくれ」
護衛は隣の卓に座り、周囲をさりげなく見渡している。
そこへミナが酒を運んできた。
「はい、お待ちどう!」
「ありがとう」
「料理は?」
「何がうまい?」
「今日は肉の煮込みがおすすめ!」
「では、それを」
「はいよ!」
ミナは注文を書き留めて厨房へ戻りかけ、ふと振り返った。
「……で、ログ。この人、誰?」
「王子」
「へえ」
ミナは一度頷いた。
それから足を止めた。
「……王子?」
「おう」
「どこの?」
「この国の」
ミナは王太子を見た。
王太子は軽く会釈した。
「世話になる」
「…………」
ミナは無言で厨房へ向かった。
しばらくして、厨房の奥から何かを落とす音がした。
王太子は肩を震わせて笑っていた。
「愉快な店だな」
「そうか?」
「少なくとも、王宮では見られぬ反応だ」
「そりゃ王宮に王子がいても驚かねえだろ」
「……確かに」
王太子はまた笑った。
◇
料理が運ばれてくる頃には、王太子もすっかり卓になじんでいた。
ヴィクは見知らぬ客をしばらく眺めていたが、やがて口を開いた。
「おかしのひと?」
「そうだ。菓子を渡した者だ」
「おいしかった!」
「それは何よりだ」
「またくる?」
「菓子が欲しいのか?」
「うん!」
王太子は声を上げて笑った。
「父親に似たな」
「俺、そんなに菓子ねだってねえぞ」
「帰り際に堂々と要求したではないか」
「一回だけだろ」
鴉樽の古参が酒を飲みながらぼそりと言った。
「普通は一回もしない」
「そうなのか?」
「そうだよ」
王太子は笑いながら、運ばれてきた煮込みを口にした。
「……うまいな」
「だろ?」
ログが得意そうに言う。
「俺が作ったんじゃねえけど」
「分かっている」
「何だよ」
しばらく食事を楽しんだあと、王太子は店内を見回した。
仕事帰りの職人、荷運びの男、旅人らしい客。
皆、それぞれの話に夢中になっている。
「ここには、いろいろな者が来るのだな」
「そりゃ酒場だからな」
「王都の外から来る者もいるのか」
「いるぞ。街道の話とか、隣の国の話とか、変な噂も持ってくる」
「ほう」
「この前なんか、北の方で橋が落ちたって話があってさ」
「北の橋?」
「名前は知らねえけど、荷車が通れなくなったって」
王太子の表情が少し変わった。
「それはいつの話だ?」
「先週くらいだったかな」
「……報告は上がっていないな」
「何の?」
「いや、こちらの話だ」
王太子は少し考えたあと、ログに尋ねた。
「そういう話は、よく聞くのか」
「よくってほどでもねえけど、誰かしら話してるぞ」
「なるほど」
王太子は杯を置いた。
「王宮には報告書が届く。だが、そこに書かれていないこともあるのだな」
「そりゃそうだろ」
「なぜそう思う?」
「だって、全部書いてたら大変じゃねえか」
「……そういう理由か」
「違うのか?」
「いや。案外、そのとおりかもしれん」
王太子は苦笑した。
国を巡っていた頃にも、役所の報告と現地の様子が食い違うことはあった。
だが、王宮に戻ってからは、机に積まれる書類ばかりを相手にしていた。
目の前の男は、そんな事情など知らない。
それでも、当たり前のように王宮の外の話をする。
「ログ」
「ん?」
「また来てもよいか」
「いいぞ。酒代払えば」
「もちろんだ」
「あと、菓子な」
「毎回持参しろというのか!」
「ヴィクが喜ぶ」
王太子はヴィクを見た。
ヴィクは期待に満ちた目で頷いている。
「……なるほど。これは断りづらい」
「だろ?」
王太子は笑った。
そのとき、隣の卓から護衛が控えめに声をかけた。
「そろそろお時間です」
「もうそんな時刻か」
王太子は名残惜しそうに立ち上がった。
「今日は楽しかった。料理もうまかった」
「また来いよ」
「ああ」
王太子は代金を卓に置いた。
鴉樽の古参がその額を見て、慌てて声を上げる。
「お、お待ちください! これは多すぎます!」
「釣りは取っておいてくれ」
「そういうわけには……」
「では、次に来たときの分だ」
王太子は帽子をかぶり直した。
「それならよいだろう?」
古参は返す言葉を失った。
ログは横から金を覗き込んだ。
「おお。しばらく飲めるな」
「お前が飲む分ではない!」
古参の声が店内に響く。
王太子は笑いながら店を出ていった。
◇
扉が閉まったあと、鴉樽の古参はゆっくり椅子に座り直した。
「……ログ」
「何だ?」
「お前、どうして王太子殿下を普通に連れてくるんだ」
「俺が連れてきたんじゃねえぞ。勝手に来たんだ」
「そういうことを言っているんじゃない」
ミナも厨房から顔を出した。
「本物だったの?」
「何が?」
「王子様!」
「本物だぞ」
「先に言いなさいよ!」
「言ったじゃねえか」
「入ってきたあとでしょうが!」
ログは首を傾げた。
「入ってくる前に、どうやって言うんだよ」
ミナは言葉に詰まった。
ヴィクが楽しそうに笑っている。
「おかしのひと、またくる?」
「来るって言ってたな」
「やった!」
ログはヴィクの頭を撫でた。
「今度は何の菓子かな」
「お前まで楽しみにするな!」
古参の怒鳴り声に、店の常連たちが笑った。
その夜、《鴉樽》ではしばらく王太子の話でもちきりになった。
一方、王宮へ戻った王太子は、護衛に尋ねていた。
「なかなか面白い店だったな」
「……殿下」
「何だ」
「次回は、せめて事前にお知らせください」
「知らせたら、お忍びにならんだろう」
「そういう問題ではございません」
王太子は笑った。
「では、次は菓子を用意しておくか」
護衛は深いため息をついた。
どうやら王太子は、あの酒場がすっかり気に入ったらしい。




