第11章 ⑯
厨房の裏口へ戻ってきたとき、ログは空になった樽を二つ抱えていた。
「それ、こっちに置いといて!」
「あいよ」
言われた場所へ樽を下ろすと、厨房の女が別の樽を指した。
「ついでに、あれもお願い」
「まだあんのかよ」
「昼の仕込みが終わるまでね」
「俺、酒屋の手伝いなんだけど」
「知ってるよ。朝から働いてるじゃないか」
女は笑って、鍋の方へ戻っていった。
ログは樽を見た。
中身は入っていない。持ち上げるのは簡単だが、さすがに何度も往復していると腹が減ってくる。
朝、荷車に潜り込む前に食べたきりだった。
「……飯、まだかよ」
樽を運び終え、厨房の隅で手を拭く。
レオが来たのは、ずいぶん前だ。
あのときは、記録院で手続きが始まったと聞いただけだった。その後は何もない。
上手くいっているなら、そろそろ知らせがあってもよさそうなものだ。
かといって、こちらから記録院へ行くわけにもいかない。
厨房の手伝いをしている男が、いきなり王宮の記録院へ顔を出せば、それこそ怪しまれる。
「おい、兄ちゃん」
声をかけられて振り向くと、年配の料理人が立っていた。
「もう運ぶものはないぞ」
「そうか。じゃ、飯は?」
「飯?」
「昼飯。ここで働いてる連中、どこで食ってんだ?」
「使用人の食堂があるけど、お前さんは酒屋の人間だろ」
「朝からずっと樽運んでんだけど」
「そういやそうだな」
料理人は少し考え、厨房の奥を指した。
「廊下を出て右だ。突き当たりを左に行くと食堂がある。まだ昼には早いが、何か残ってるかもしれん」
「助かる!」
「勝手に持っていくなよ。食堂の係に聞け」
「分かってるって」
ログは教えられた廊下へ出た。
厨房の中とは違い、こちらは静かだった。
時折、盆や布を抱えた使用人が通る。ログと目が合っても、誰も特に気にしない。
朝から厨房を出入りしていたおかげで、顔を覚えられたらしい。
廊下を右へ進み、突き当たりを左に曲がる。
その先に食堂があった。
扉は開いており、中では数人の使用人が食事をしている。
ログが入口から覗くと、配膳台の向こうにいた女が顔を上げた。
「何か用?」
「飯、食える?」
「どこの人?」
「酒屋の手伝い。朝から厨房で働いてた」
「ああ、樽を運んでた人ね」
「そう、それ!」
「まだ昼の分は出してないよ。残り物ならあるけど」
「何でもいい!」
女は呆れたように笑い、皿を一枚取った。
「じゃあ、そこに座って待ってて」
ログは空いている席に腰を下ろした。
ようやく座れた。
窓の外から、遠くで人の声が聞こえる。
何か騒いでいるらしいが、ここからではよく分からない。
ログは少し耳を澄ませたものの、すぐに諦めた。
王宮の外で何が起きていようと、今の自分には関係ない。
それよりレオだ。
「……おせえな、あいつ」
小さく呟いたところで、食堂の入口を男が通り過ぎた。
濃い色の上着を着た、背の高い男だった。
特に珍しい格好ではない。
王宮には朝からいろいろな人間が出入りしている。役人もいれば、使用人もいる。商人だって入ってくる。
ログは気にせず、配膳台の方を見た。
「はい、お待たせ」
女が皿を持ってきた。
パンと煮込み料理、それに少しばかりの野菜。
「おお!」
「大したものじゃないよ」
「十分だって!」
ログは早速パンをちぎった。
温かい煮込みを口に運ぶ。
「うまっ!」
「そりゃよかった」
女は笑いながら仕事へ戻っていった。
ログは夢中で食べた。
朝から働いた後の飯はうまい。
王宮の料理だからなのか、単に腹が減っていたからなのかは分からないが、どちらでもよかった。
皿が半分ほど空いた頃、廊下から足音が聞こえた。
さっきの男だった。
今度は反対側から歩いてきて、食堂の前を通り過ぎていく。
ログはパンを持ったまま顔を上げた。
「……ん?」
見覚えがある。
さっき通った男だ。
別に同じ廊下を二度通ったからといって、おかしなことではない。
ログ自身、朝から厨房の周りを何度も行ったり来たりしている。
だから、そのまま食事を続けた。
食べ終わった皿を返し、女に礼を言って食堂を出る。
さて、どうするか。
厨房へ戻れば、また何か運ばされるかもしれない。
それは別に構わないが、そろそろレオから何か知らせが欲しい。
ログは廊下の角まで歩き、少し先を覗いた。
ちょうど、さっきの男が廊下の奥を歩いていた。
またあいつか。
食堂の前を二度通った男だ。今度はどこへ行くのだろう。
男は廊下の途中で足を止めた。
向こうから衛兵が二人、歩いてくる。
男は近くの扉を開け、するりと中へ入った。
衛兵たちは何も気づかず、そのまま通り過ぎていく。
しばらくして、男が扉から出てきた。
周囲を確かめ、再び歩き始める。
「……ん?」
ログは足を止めた。
今の、何だ?
衛兵が来たから隠れたように見えた。
王宮で働いている人間なら、衛兵を避ける必要はないはずだ。
もちろん、何か事情があるのかもしれない。
だが、男は先ほどから同じ辺りを行ったり来たりしている。
ログは少し考え、男の後を追うことにした。
廊下の角を曲がると、男はさらに奥へ進んでいた。
ログは距離を空けて歩く。
男が止まった。
ログも止まる。
今度は向こうから使用人が来た。
男は壁際に寄り、近くの柱の陰へ身を隠した。
ログも手前の角へ引っ込む。
使用人が通り過ぎると、男はまた歩き始めた。
「……何やってんだ、あいつ」
ログは小さく呟いた。
衛兵だけじゃない。
使用人まで避けている。
ますます怪しい。
男は迷っている様子もなく、廊下の奥へ進んでいく。
ログはその背中を見ながら、少しだけ距離を詰めた。
何をするつもりなのか、確かめてから戻ればいい。
レオから連絡が来るまで、まだ時間はありそうだった。




