第11章 ⑭
翌朝、まだ王都の店が開き始める前に、ログは酒を積んだ荷車の前に立っていた。
樽が六つ。木箱が四つ。
荷台には縄が張られ、荷崩れしないように固定されている。
「ここか?」
ログが樽と木箱の間を覗き込むと、隣にいた常連が頷いた。
「奥だ。入ったら動くなよ」
「分かってるって」
「門を通るまでじゃねえぞ。厨房裏までだ」
「だから分かってるって!」
ログは荷台へ上がると、樽の陰に身体を滑り込ませた。昔、荷運びをしていた頃には、荷車の隙間に入り込んで落とした物を拾うこともあったが、今回は最初からそこに収まることになっている。
「狭えな」
「当たり前だ。人を乗せる場所じゃねえ」
「もうちょい空けろよ」
「荷が減るだろ」
常連は木箱を一つ動かし、外からログの姿が見えないことを確かめた。
「いいか。途中で声を出すな」
「分かってる」
「返事もするな」
「……」
「今からだ」
ログは樽の向こうで舌打ちした。
御者台に座った商人が手綱を握り、荷車がゆっくり動き始める。
荷台の奥では、ログが膝を抱えていた。
揺れるたびに木箱が小さく軋む。
しばらくすると、通りを行き交う人の声が増え、石畳を踏む馬の音が周囲から聞こえるようになった。
王宮の外門に着いたのは、朝の搬入が始まる時間だった。
「止まれ」
衛兵の声がした。
荷車が止まる。
「名前と荷札を」
商人が名乗り、荷札を差し出す。
衛兵は記録を確かめてから、荷台へ回った。
「今日は酒が六樽か」
「はい。酢が二箱、油が二箱です」
「いつもの便だな」
衛兵が樽の側面を叩く音がした。
ログは身動きせず、目の前の木箱を見ていた。
足音が近づく。
一人が荷台へ手をかけたらしく、車体がわずかに揺れた。
「こっちの箱は?」
「酢です」
「開けろ」
木箱の蓋を外す音がする。
中身を確かめた衛兵は、今度は別の樽へ移った。
ログのすぐ横だった。
樽を叩く。
もう一度。
「よし」
衛兵が荷台から降りた。
「通れ」
車輪が動き出したところで、ログは小さく息を吐いた。
だが、まだ終わりではない。
東側の搬入口でも、もう一度確認がある。
その頃、レオと古参、夫人の三人は、王宮の正門を通っていた。
古参が身分を示し、記録院への再訪と正式な申し立てのために来たことを伝える。
受付の役人は書類を確かめたあと、夫人へ目を向けた。
「こちらの方は?」
「今回の件に関係する軍の記録について、説明をお願いする方だ」
夫人は静かに一礼した。
役人は同行者の名前を記録し、三人を通した。
記録院へ向かう廊下には、朝から書類を抱えた役人が行き交っている。
レオは歩きながら、昨日確認した通路を目で追った。
厨房は反対側の建物にある。
今すぐそちらへ向かうことはできない。
まずは正規の手続きを始めなければならなかった。
記録院に着くと、昨日と同じ受付の男が顔を上げた。
「昨日の……」
「本日は正式な申し立てだ」
古参が書類を差し出す。
「十九年前の停止命令と、十七年前の完了報告について、確認を求めたい」
受付の男は書類を受け取り、表題を見たところで手を止めた。
「少々お待ちください」
奥の部屋へ入っていく。
レオは古参と顔を見合わせた。
昨日はその場で閲覧の手続きが進んだ。
今日は違う。
しばらくして戻ってきた男は、三人に待つよう告げた。
「担当の者が参りますので、こちらでお待ちください」
案内されたのは、記録院の奥にある小さな待合室だった。
古参は椅子に座ったが、書類を手放そうとはしなかった。
「昨日より早いな」
レオが小声で言うと、古参は頷いた。
「何がだ?」
「止められるまでが、です」
夫人は二人のやり取りを聞きながら、閉じた扉を見つめていた。
一方、酒の荷車は東側の搬入口に到着していた。
「荷札を」
商人が再び書類を渡す。
今度の確認は外門より細かかった。
樽の数を数え、箱を確かめ、荷台の縄を緩めて奥まで見ようとする。
ログは樽の陰で身体を縮めた。
衛兵の手が木箱にかかる。
一つ動いた。
隙間から光が差し込む。
ログは息を止めた。
「おい、そっちはいい。油を先に見ろ」
別の声がした。
「昨日、厨房から数が合わないって連絡が来てる」
「油か?」
「そうだ。四箱のうち二箱だろ」
「分かった」
衛兵の手が離れ、木箱が元の位置へ戻された。
足音が遠ざかる。
商人が油の箱を降ろすと、衛兵たちは蓋を開けて中身を確認し始めた。
やがて荷札が返された。
「よし。厨房裏へ回してくれ」
荷車が再び動き出す。
今度は長く走らなかった。
建物の裏手で止まり、荷下ろしをする男たちの声が聞こえてきた。
「酒六樽! 酢と油もあるぞ!」
「こっちへ持ってきてくれ!」
商人が荷台の縄を解く。
木箱が一つ、また一つと降ろされ、樽の陰に隠れていたログの前が開いた。
「おい」
小さく声をかけられ、ログが顔を上げる。
「着いたぞ」
「やっとか」
「声がでけえ」
「普通だろ」
ログは荷台から降りると、腰を伸ばした。
長い間同じ姿勢でいたせいで、足が少し痺れている。
だが、荷下ろしはもう始まっていた。
「そこの樽、二本こっちだ!」
厨房の男が声をかける。
ログは返事をする代わりに樽へ手をかけた。
「おい、それ重いぞ」
「知ってる」
持ち上げると、男が少し驚いた顔をした。
「慣れてるな」
「昔やってた」
「なら、そっちの三本も頼む」
「おう」
ログは樽を運び始めた。
厨房裏には、ほかにも何台かの荷車が停まっている。
野菜を運ぶ男、空の木箱を積み直す男、食器を抱えて急ぐ使用人。
誰も、酒樽を運んでいる男を気に留めなかった。
記録院では、三人の前にようやく担当の役人が現れていた。
年配の男だった。
古参が立ち上がり、改めて書類を示す。
「十九年前の停止命令について、履行状況の確認を求める」
役人は書類を受け取り、表題を確認した。
「この件は、十七年前に整理が完了しているはずですが」
「その完了報告に疑義がある」
「疑義、ですか」
「はい。報告後も管理が継続されていたことを示す記録があります」
役人の視線が書類へ戻った。
「その記録は?」
「こちらです」
古参は用意していた写しを差し出した。
役人は数枚めくったところで、動きを止めた。
「……少々、お待ちください」
再び奥へ入っていく。
レオは閉まった扉を見た。
「また待つのか」
「そういうことだ」
古参は落ち着いていた。
「まだ正式に拒否されたわけではない。手続きが進んでいる可能性もある」
「そうですね」
レオは時計を確かめた。
そろそろ荷車が厨房裏へ着いている頃だ。
「少し席を外します」
古参が顔を上げる。
「どこへ?」
「朝から何も食べていないので。何か口にできるところがないか聞いてきます」
「遠くへ行くなよ」
「分かっています」
夫人は何も言わず、レオを見送った。
廊下へ出ると、ちょうど書類を抱えた若い使用人が通りかかった。
「すみません」
「はい?」
「この近くで、茶か何か飲める場所はありますか。朝から何も食べていなくて」
「ああ、それでしたら、厨房の手前に使用人用の休憩室があります。お客様向けではありませんが、今の時間なら茶くらいはいただけると思います」
「助かります。どちらでしょう」
使用人は廊下の先を指し、曲がる場所を教えてくれた。
レオは礼を言って歩き出した。
途中で何人もの使用人とすれ違ったが、呼び止められることはなかった。
厨房に近づくにつれて、食器の触れ合う音や人の声が増えていく。
やがて、裏庭へ続く通路が見えた。
その先では、酒樽を抱えた男が歩いていた。
レオは足を止めた。
見覚えのある背中だった。
男は樽を所定の場所へ置くと、近くにいた料理人に何かを聞かれ、片手で奥を指した。
そして振り返る。
目が合った。
ログだった。
「おせえよ」
レオは思わず周囲を見回した。
「お前、何をしてるんだ」
「見りゃ分かんだろ。仕事」
「声を落とせ!」
「何でだよ。俺、荷運びだぞ?」
その通りだった。
ログは荷運びの男として、何の疑いも持たれずに厨房裏へ入り込んでいた。
しかも、すでに何本もの樽を運び終えているらしい。
「……本当に働いてたのか」
「働いてなきゃ怪しいだろ」
レオは返す言葉を失った。
十九年前、《鴉樽》で雑用をしていた男が、今は王宮の厨房で酒樽を運んでいる。
その姿があまりに自然だった。
「で?」
ログが少し近づいた。
「書類、どうなった?」
レオは声を落とした。
「二度、奥へ持っていかれた。まだ返事はない」
「止まってんのか?」
「分からない。だが、昨日とは対応が違う」
ログは厨房の方を見た。
「じゃあ、まだ待ちか」
「ああ。勝手に動くなよ」
「分かってるって」
レオはその返事を信用しなかった。
だが、今のところログは指示どおりに動いている。
「私は一度戻る。何かあれば、またここへ来る」
「おう」
レオが引き返そうとすると、厨房の奥から声が飛んできた。
「おーい! そこの兄ちゃん!」
ログが振り返る。
「何だ?」
「空樽も頼む!」
「おう!」
ログは何のためらいもなく返事をすると、厨房の奥へ歩いていった。
レオはしばらくその背中を見送っていた。
王宮に潜り込んだ男が、すっかり荷運びの仕事を任されている。
これでいいのか。
少し考えたが、今はそれでいいのだろう。
レオは記録院へ戻るため、来た道を引き返した。
その頃、古参たちの待つ部屋では、ようやく扉が開いていた。
戻ってきた役人の後ろに、もう一人の男が立っている。
その男は古参を見たあと、机の上の書類へ目を落とした。
「この件について、確認したいことがあります」
古参は椅子から立ち上がった。
「何でしょう」
「まず、こちらの記録をどこで入手されたのか、お聞かせください」
男が指していたのは、軍から持ち出した四年前の記録だった。




