第11章 ⑩
「名前で聞いてる」
常連がそう言ってから、ログはしばらく黙っていた。
「俺、有名になった?」
「十九年前からな」
レオが答えた。
「知らなかった」
「普通は知る機会がない」
「じゃあ別にいいか」
「よくない」
古参が机の上の書類をまとめ始めた。
「軍がログを探しているなら、ここへ来るまで時間はかからん」
ログが主を見る。
「来る?」
「来ねえ」
主は煙草を吸った。
夫人が顔を上げる。
「なぜ分かるのです?」
「前に失敗してる」
数か月前。
《鴉樽》へ手を伸ばした者たちは、思うようには動けなかった。
連絡役は捕まり。
攫った三人は取り返され。
地下街へ入った者は、どこへ行っても見られていた。
「夫なら、同じことはしません」
夫人が言った。
「一度失敗した方法を、相手が変わっていないのに繰り返す人ではありません」
ログが少し考える。
「じゃあ俺を外で捕まえる?」
「可能性はあります」
「出なきゃいい?」
「それでは向こうの思う通りです」
レオが言った。
ログが嫌そうな顔をする。
「どっちだよ」
「捕まるな。だが止まるな」
「難しいこと言うな」
古参が書類を一つにまとめた。
「問題はログじゃない」
「俺探されてんだけど」
「それでもだ」
古参は十九年前の停止命令を机へ置いた。
その隣に、四年前の母子捜索。
さらに、現在まで続く管理記録。
「これをどうする」
ログが見る。
「持ってく」
「どこへ」
「……役所?」
古参が首を振る。
「どの役所だ」
「偉いとこ」
「その偉いところの途中に、今まで何人いたと思っている」
ログは黙った。
レオが書類を見る。
王の命令。
軍の異議。
部署の変更。
予算の付け替え。
商人。
倉庫。
司令官府。
十九年間。
命令が消えたのではない。
途中で形を変えられた。
「普通に出せば」
レオが言った。
「また途中を通る」
「だな」
「じゃあ、途中を通さなきゃいい」
ログが言った。
古参が見る。
「どうやって」
「王様に持ってく」
今度は全員が黙った。
ログが周りを見る。
「違う?」
「いや」
古参が額を押さえた。
「間違ってはいない」
「じゃあいいじゃん」
「簡単に言うな」
「王様が止めろって言ったんだろ?」
「ああ」
「止まってなかった」
「ああ」
「じゃあ、止まってないって教えればいい」
白衣が頷いた。
「理屈は合っている」
古参が白衣を見る。
「お前は黙っていろ」
「なぜだ」
「話が簡単に見える」
「簡単だろう。命令を出した者に、命令が履行されていないと報告する」
「そこまで行くのが簡単ではないと言っている」
白衣は少し考えた。
「なら、行けばいい」
古参が両手で顔を覆った。
ログが白衣を見る。
「お前、たまに俺と同じこと言うな」
「不本意だ」
「俺もだよ」
夫人が、机の上の停止命令を取った。
「陛下まで届けば、夫だけでは済みません」
誰も答えなかった。
「父の名も出ます」
夫人は続けた。
「父の元部下も。取引を続けた商人も。関わった役人も」
「嫌か?」
主が聞いた。
夫人は少しだけ黙った。
「嫌です」
はっきり答えた。
「父ですから」
書類へ目を落とす。
その横顔が、ほんの少しだけ固くなった。
「子供の頃、父が帰ってくる日は、玄関まで迎えに行っていました」
ログが夫人を見る。
「軍服のまま帰ってくるんです。私は、それが好きでした」
夫人の指が、紙の端を押さえる。
「国を守る仕事をしているのだと聞かされていました。父も、そう言っていました」
少しだけ笑った。
「だから、誇らしかった」
誰も口を挟まなかった。
「父のような人間になりたいと思ったこともあります」
机の上には、その父の名がある。
十九年前。
止めるよう命じられたものを。
止めなかった側に。
「父が亡くなった時も」
夫人は続けた。
「最後まで、立派な人だったと思っていました」
声は変わらない。
泣きもしなかった。
ただ。
紙を押さえる指だけが、少し強くなった。
「今さら知りたくはありませんでした」
ログが何も言わずに聞いている。
「知らなければ、私はずっと、父を尊敬したままでいられた」
夫人は一度、目を閉じた。
「その方がよかったと、今でも思います」
主が煙草を吸う。
「なら、やめるか」
夫人は目を開けた。
「いいえ」
即答だった。
「それと、これは別です」
父の名がある紙を見る。
「父が私に優しかったことと」
次の紙。
番号で管理された人間たち。
「父が、この人たちにしたことは」
夫人は静かに言った。
「別です」
誰も何も言わなかった。
「亡くなっていても、父がしたことが消えるわけではありません」
次に、四年前の承認欄を見る。
「夫もです」
夫人は紙を置いた。
「ですが、夫だけを差し出して終わらせるつもりもありません」
古参が顔を上げた。
「十九年前から続けた者を、全部出すか」
「分かる範囲は」
「あなたの家も含めて?」
「含めます」
今度は。
ほんの少し間があった。
それでも。
夫人は言った。
「私が知っていた父まで、嘘にするつもりはありません」
ログが首を傾げる。
夫人は続けた。
「優しい父でした。それは本当です」
父の名を指す。
「これも、本当です」
二つとも。
消さない。
「だから出します」
ログは少し黙った。
「……そっか」
それ以上は言わなかった。
主が煙草を灰皿へ押しつける。
「で」
古参を見る。
「王までどう通す」
古参はしばらく考えた。
「正規の報告経路は使えん」
「途中で止まる?」
ログが聞く。
「止められる可能性がある。少なくとも、誰が何を持っているかは知られる」
レオが頷く。
「軍を通すのは論外です」
「政務側も十九年間まったく気づかなかったとは限らん」
古参が言った。
「気づいて黙っていた者がいる可能性も考える」
ログが嫌そうな顔をした。
「誰なら信用できんの」
古参は答えなかった。
白衣が言う。
「王」
「そこへ行く方法の話をしている!」
「だから王に」
「お前は少し黙れ!」
白衣が黙った。
三秒ほど。
「昔なら」
「黙れ!」
店の奥で、ミナが笑いを堪えている。
その隣では、ヴィクが眠そうな顔で椅子に座っていた。
何を話しているのかは分かっていない。
机の上の紙にも興味はない。
ただログがいるので、まだ寝たくないらしい。
ログはヴィクを見る。
四年前。
番号をつけられた。
追われた。
母親が逃げた。
今も記録から消されていなかった。
「絶対持ってく」
ログが言った。
古参が見る。
「何をだ」
「全部」
机の上を指す。
「王様んとこまで」
「だから方法を」
「考えて」
「お前も考えろ!」
「俺、こういうの苦手」
「知っている!」
レオが息を吐いた。
「一つあります」
全員が見る。
「王へ直接渡す方法ではありません」
「じゃあ駄目じゃん」
「最後まで聞け」
レオは古参を見る。
「十九年前の停止命令。これは王宮から出ています」
「ああ」
「なら、原本か控えが王宮側にも残っているはずです」
古参の表情が変わった。
「軍に残ったものだけではなく」
「王宮側の記録です」
夫人も気づいた。
「命令を出した側の記録と、軍に残っている記録を合わせる?」
「はい」
レオは机の書類を指した。
「今あるのは、こちら側から取ったものが多すぎる」
軍。
軍と繋がる商人。
軍の保管所。
司令官府。
「これだけでも証拠にはなる。だが、向こうは言える」
古参が続ける。
「一部の記録だ。意味が違う。正式な移管だった。必要な措置だった」
「だから」
レオが十九年前の停止命令を指した。
「王宮側に残っている、その後のやり取りを見る」
停止命令を出した。
軍が何と答えたのか。
王宮が何を認め。
何を認めなかったのか。
どこまでを期限としたのか。
それが残っていれば。
後から付けられた理由ではなくなる。
古参がゆっくり頷いた。
「逃げ道を潰せる」
ログが二人を見る。
「じゃあ、それ取ってくればいい?」
「盗むな」
レオが即答した。
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「借りるだけかもしれない」
「返す予定のないものを借りるとは言わない」
主が煙草へ火をつけた。
「誰が見られる」
古参が考える。
「王宮記録院なら、私の古い資格がまだ通る可能性はある」
「可能性?」
ログが聞く。
「長く使っていない」
「駄目だったら?」
古参はログを見た。
「お前は外で待て」
「何で」
「絶対に入るな」
「まだ何もしてない」
「軍の保管所でもそう言っていたはずだ」
ログは口を閉じた。
主が立ち上がる。
「決まりだ」
古参が見る。
「今からか?」
「向こうも動いてる」
主はログを見る。
「朝まで待つ理由があるか」
ログが笑った。
「ない」
「お前は行くな」
「何で!?」
「名前で探されてる」
「今の流れ、俺が行くやつだっただろ!」
「違う」
「絶対そうだった!」
レオが立ち上がった。
「今回は私と古参で行きます」
「俺は?」
「ここにいろ」
「白衣は?」
「ここだ」
「夫人は?」
「ここです」
「ミナは?」
「ここ」
ログは一人ずつ見た。
「全員ここじゃん!」
ヴィクが眠そうに顔を上げた。
「ぱぱ?」
「ほら! ヴィクも行けって!」
「言ってねえ」
主が答えた。
ヴィクはよく分からないまま、主へ両手を伸ばした。
主が抱き上げる。
ログは不満そうに二人を見た。
「俺が見つけた箱なのに」
「だからだ」
主はヴィクを抱いたまま言った。
「次は、見つからねえ奴が行く」
古参が外套を取る。
レオも続いた。
十九年前。
王が出した命令。
軍が従わなかった命令。
今度は。
出した側に残った記録を探す。
軍の中からではなく。
王宮の側から。




