第11章 ⑦
夫人は帰らなかった。
必要なものは、あとで取りに行けばいい。
そう言った夫人に、主は首を振った。
「行くな」
「ですが、着替えくらいは」
「買え」
「私のお金は家にあります」
「貸す」
「あなたが?」
主が黙った。
ログも黙った。
レオも黙った。
夫人が主を見る。
「お持ちなのですか?」
「……ある」
どこに。
誰も聞かなかった。
ミナが夫人の腕を取った。
「とりあえず、私のものでよければ」
「助かります」
二人が奥へ消えていく。
ログは主を見る。
「金、あるの?」
「うるせえ」
その話はそこで終わった。
今は、それどころではない。
常連が持ち帰った話では、司令官府の人間が夫人の行動を調べ始めている。
昨日どこへ出かけたのか。
誰と会ったのか。
最近、普段と違うことをしていなかったか。
使用人にも、それとなく聞いているらしい。
「早いな」
ログが言った。
「書庫を見られたからでしょう」
夫人が戻ってきた。
ミナの服では少し丈が合わない。
それでも、昨日までの姿よりずっと地下街に馴染んで見える。
「昨夜、夫に見られました。古い書類を出しているところを」
「何て言ったの?」
「父の書類を整理していたと」
「信じた?」
「その場では、それ以上聞かれませんでした」
レオが首を振った。
「信じたわけではなかったんでしょう」
夫人も頷いた。
「夫は、疑ってもすぐには問いません」
「面倒な奴だな」
ログが言う。
「そうですね」
妻に言われた。
ログは少しだけ黙った。
主が机の上の六人の名前を見る。
「こいつらは?」
レオも視線を落とす。
「夫人の動きを調べ始めたなら、こちらも動く可能性があります」
「何する?」
「まず、自分たちが何を知られているか確認するでしょう」
夫人が言った。
「そのあと、残っているものを処理します」
ログが顔を上げた。
「証拠?」
「私なら、そうします」
「じゃあ先に取ればいい」
「場所が分かればな」
レオが言った。
ログは机の紙を見る。
六人。
軍人三人。
役人一人。
商人一人。
最高司令官。
全部を同時に張るのは難しい。
「常連、何人いる?」
主が聞いた。
店の隅から声がした。
「今?」
ログが振り返る。
「いたの?」
「いた」
いつからいたのかは分からない。
主が言う。
「動かせる奴」
常連は少し考えた。
「何人欲しい?」
「六人見る」
「なら足りる」
「絶対、何人いるか言わねえよな」
ログが呟いた。
常連は答えなかった。
その日の午後。
六人を見る目がついた。
近づかない。
話しかけない。
ただ、誰がどこへ行くかを見る。
最高司令官本人には、二人。
「何で二人?」
ログが聞いた。
「一人じゃ撒かれる」
常連が答えた。
「やっぱ強い?」
「知らん」
「じゃあ何で」
「最高司令官だから」
もっともだった。
日が傾く頃。
最初の動きが出た。
商人。
店を早めに閉めた。
裏口から出た男が、荷車も使わず徒歩で西へ向かった。
常連が一人ついた。
次。
行政側の男。
仕事を終えて役所を出たあと、自宅とは逆方向へ向かった。
また一人。
軍人の一人は動かなかった。
もう一人は、通常通り帰宅。
三人目。
軍の補給に関わる男が、日が落ちてから再び官舎を出た。
「動いた」
報告を受けたログが立ち上がる。
レオが腕を掴んだ。
「待て」
「何で」
「まだ行き先が分からない」
「追えば分かる」
「常連が追っている」
「俺も」
「お前が出たら目立つ」
ログは座った。
「こういうの嫌い」
「知っている」
一刻ほどして、次の報告が来た。
商人が向かったのは、古い倉庫だった。
これまで調べていた場所ではない。
南側。
表向きは穀物を扱う倉庫。
現在も普通に使われている。
「普通の倉庫?」
ログが聞く。
「昼間はな」
常連が答える。
「夜に入った」
「何しに?」
「そこまでは見てない」
次。
行政側の男。
向かった先は、商館。
これまで何度も名前が出てきた場所だった。
「戻った」
ログが言った。
線が一本。
さらに一刻。
軍の補給担当。
向かったのは司令官府ではなかった。
王都の北側にある、小さな邸宅。
夫人が住所を聞いて顔を上げた。
「知っています」
「誰んち?」
「父の元部下です」
机の六人を見る。
その名前がある。
現在も軍にいる三人のうち、一人。
ログが笑った。
「集まってんじゃん」
「まだです」
レオが止める。
「三人が動いただけだ」
「でも繋がった」
それは否定できない。
今まで紙の上にしかなかった線が、人間の動きとして現れ始めている。
夜が深くなった。
最高司令官は、まだ司令官府にいた。
動かない。
「帰らないね」
ログが言った。
夫人は何も答えなかった。
さらに時間が過ぎる。
常連が戻った。
「司令官府から一人出た」
「本人?」
「違う」
「どこへ?」
常連は机の紙を見た。
指を置く。
行政側の男。
「こいつの家」
レオの顔が変わった。
「誰を送った?」
「知らん奴」
「軍人?」
「服は普通。歩き方は軍っぽい」
夫人が言った。
「夫は、自分では動きません」
ログが夫人を見る。
「こういう時?」
「ええ」
「じゃあ、やっぱり気づいてる?」
「少なくとも、何か起きているとは思っているでしょう」
主が煙草に火をつけた。
「十分だ」
ログが見る。
「何が?」
「向こうが勝手に教えてる」
机の上。
六人の名前。
そのうち四人の間で、人が動いた。
商館。
新しい倉庫。
軍人の家。
行政側。
そして司令官府。
今まで何日もかけて、一枚ずつ書類を繋いできた。
それを今夜。
向こうが自分たちで結び始めている。
ログが笑った。
「そっか」
レオが嫌な顔をした。
「何だ」
「証拠消すならさ」
ログは立ち上がった。
「証拠ある場所に行くよな」
「待て」
「もう待った」
「だからといって突っ込むな」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「座れ」
ログは座らなかった。
そのとき。
扉が開いた。
別の常連が入ってくる。
息が上がっていた。
「南の倉庫」
全員が見る。
「荷物、出し始めた」
ログの目が変わった。
「何を?」
「箱。紙もある」
「どこへ運ぶ?」
「まだ分からん」
主が立ち上がった。
「荷車は?」
「二台」
「人は?」
「七、八人」
主はログを見る。
「行け」
ログが笑った。
「いいの?」
「消される前に取れ」
レオも立ち上がる。
「私も行く」
白衣が顔を上げた。
「俺は?」
ログとレオが同時に言った。
「留守番」
「そうか」
夫人も立った。
「私も」
主が首を振る。
「お前は残れ」
「ですが、見れば分かるものがあるかもしれません」
「顔も割れてる」
夫人が黙る。
主は煙草を灰皿へ押しつけた。
「ここにいろ」
今度は夫人も逆らわなかった。
ログが扉へ向かう。
レオが後を追う。
常連も出る。
外はもう暗い。
十九年間。
紙の中に隠れていた連中が。
初めて、自分たちから動いた。
ログは走り出した。
「どっち!」
「こっちだ!」
今夜。
追う側と追われる側が、入れ替わった。




