第11章 ⑤
その夜。
最高司令官が帰宅したのは、いつもより少し遅い時間だった。
夫人は食堂で夫を迎えた。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
いつもと変わらない。
夫は外套を使用人へ渡し、席についた。
夕食が運ばれる。
軍のことは話さない。
夫人も聞かない。
それは長年続いてきた、この家の習慣だった。
「今日は出かけていたのか」
不意に夫が聞いた。
夫人の手が止まりそうになった。
止めなかった。
「ええ。少し」
「そうか」
それだけだった。
どこへ行った。
誰と会った。
何をしていた。
夫は聞かなかった。
夫人も話さなかった。
四年前。
男児。
あなたの夫の生家の紋。
頭の中に、あの短い文章が残っている。
そして、酒場で見せられた紋。
間違いなかった。
夫がこの家へ入る前に使っていた、生家のものだった。
食事を終えると、夫はいつものように仕事部屋へ入った。
夫人は自室へ戻った。
扉を閉める。
しばらく待った。
廊下が静かになってから、再び部屋を出た。
向かったのは、屋敷の古い書庫だった。
父が使っていた部屋に近い。
軍を退いたあとも、父は古い書類をなかなか処分しなかった。
母には何度も捨てるよう言われていた。
そのたびに父は、
必要になるかもしれん。
そう言って残した。
子供の頃は、ただ物を捨てられない人なのだと思っていた。
今夜、その言葉を思い出した。
書庫の鍵を開ける。
灯りをつける。
古い紙の匂いがした。
夫について調べるつもりだった。
まだこの家へ入る前。
軍で何をしていたのか。
どの施設へ出入りしていたのか。
父なら知っていた可能性がある。
夫と父は、軍で無関係だったわけではない。
むしろ、それが縁の一つだった。
棚から古い箱を下ろした。
年代ごとにまとめられている。
夫がまだ若かった頃。
結婚より前。
一枚ずつ確認していく。
人事。
物資。
施設。
軍内部の連絡。
夫の名前は、思ったより早く見つかった。
若い。
階級も低い。
それでも、いくつかの施設へ出入りする立場にいた。
酒場で聞いた話と一致する。
夫人は次の紙をめくった。
また夫の名前。
その次にも。
その中に、見覚えのない施設番号があった。
場所は書かれていない。
ただ、物資の確認と引き渡し。
父の署名があった。
夫人の手が止まった。
もう一度読む。
夫ではない。
父の名だった。
同じ箱を調べた。
別の書類。
そこにも父の名。
さらに別の書類。
また。
夫人は椅子へ座った。
父は軍の上層にいた。
書類に名前があっても、それ自体はおかしくない。
軍の施設に関わることもある。
若い部下へ仕事を割り振ることもある。
夫がその一人だったとしても、不自然ではない。
まだ何も分からない。
夫人は自分にそう言い聞かせた。
次に探したのは、十九年前だった。
酒場の男たちが言っていた。
地下の仕組みが壊れた。
王が止めるよう命じた。
そのあとも管理は続いた。
もし本当に父が関わっていたのなら。
十九年前に何か残っている。
箱を替えた。
紙の束を取り出す。
最初に出てきたのは、施設の整理に関するものだった。
閉鎖。
移管。
残務処理。
対象者の生活支援。
物資の整理。
おかしくはない。
むしろ、王の命令に従った後始末に見える。
夫人は一枚ずつ読んだ。
やがて、同じ言葉が何度も出てくることに気づいた。
移管。
一時保管。
継続支援。
経過確認。
別の部署へ。
別の施設へ。
別の名目へ。
終わっていない。
散っている。
夫人は一枚を抜き出した。
父の署名。
次。
父の署名。
その次には、父の名はなかった。
代わりに、別の軍人。
知っている名前だった。
幼い頃、この屋敷へ何度も来ていた男だ。
さらに次。
別の名前。
それも知っている。
父の部下だった。
夫人は立ち上がり、別の棚へ向かった。
軍の書類ではない。
家の帳簿だった。
この家には軍務とは別に、土地や貸倉庫、出資先の記録が残っている。
年代を合わせる。
十九年前。
帳簿を開いた。
一つずつ追う。
そこで、手が止まった。
倉庫。
見覚えのある場所だった。
正確には、名前に見覚えがあった。
昨日、酒場で聞いた。
東側にある古い倉庫。
所有者が死んだあとも税が払い続けられ、名義だけが残っていた場所。
帳簿には、その倉庫と直接同じ名前はない。
だが、管理を請け負っていた商会の名があった。
この家から金が出ている。
翌年も。
その翌年も。
名目は管理費。
金額は大きくない。
さらに数年後。
今度は逆に、別の商会から金が入っている。
軍への物資納入に関する配当。
夫人はページを戻した。
同じ商会。
名前を変えている。
代表者も変わっている。
だが、繋がっている。
父が軍を退いたあとも。
続いている。
夫人は息を吐いた。
まだ決めつけてはいけない。
帳簿だけなら、普通の取引かもしれない。
軍の納入業者と軍人の家に付き合いがあること自体、珍しくはない。
問題は。
なぜ。
王が止めたはずの施設の整理と同じ時期に始まり。
なぜ。
十九年間。
形を変えながら続いている。
夫人はさらに古い箱を開けた。
父の私的な書簡が入っていた。
軍を退いたあとに届いたもの。
差出人を確認する。
何人かは知っている。
何人かは知らない。
一通。
二通。
三通。
そして。
夫の名を見つけた。
結婚後のものだった。
夫人は封を開いた。
短い文面だった。
形式的な近況。
軍内部の人事。
物資の調整。
最後に数行。
夫人はそこを二度読んだ。
旧来の管理については、表に出さぬ形で維持する。
急激な廃止は軍務に支障を生じさせる。
必要な人員と予算については、従来の関係先を用いる。
夫人は動かなかった。
紙を持つ指に力が入った。
表に出さぬ形で維持する。
王は止めろと言った。
酒場の男はそう言った。
夫人は次の書簡を探した。
あった。
父から夫へ送った控え。
短い。
了承した。
関係先にはこちらから話を通す。
従来の名目は使うな。
夫人は目を閉じた。
夫だけではない。
父も知っていた。
知っていたどころではない。
支えていた。
扉の向こうで音がした。
夫人は顔を上げた。
足音。
近づいてくる。
書類を机の上に置いたまま、動けなかった。
足音が書庫の前で止まった。
扉の取っ手が動く。
「まだ起きていたのか」
夫だった。
夫人は机の前に立っていた。
夫の目が室内を見回す。
開いた箱。
積まれた帳簿。
机の上の古い書簡。
「何をしている?」
夫人は夫を見た。
ほんの一瞬。
聞こうと思った。
これは何です。
父と何をしていたのです。
王の命令を、なぜ無視したのです。
四年前に逃げた女を知っていますか。
その子供を知っていますか。
あなたの生家の紋が、なぜその子の産着にあるのです。
聞きたいことはいくらでもあった。
けれど。
今聞けば、夫は知る。
誰かが調べていることを。
四年前の子供が生きていることを。
産着が残っていることを。
夫人は机の上の書簡へ手を置いた。
「父の書類を整理していました」
夫の視線が紙へ落ちる。
一拍。
「今さら?」
「ええ」
夫人は微笑んだ。
「昨日、少し懐かしくなりまして」
夫はしばらく妻を見ていた。
「夜も遅い」
「もう休みます」
「ああ」
夫は扉から離れた。
足音が遠ざかっていく。
夫人は動かなかった。
完全に聞こえなくなるまで待つ。
それから、ゆっくり息を吐いた。
机の上を見る。
父の署名。
夫の書簡。
家の帳簿。
十九年間。
全部、同じ家の中にあった。
夫人は必要なものを書き写した。
元の書類は、すべて元の場所へ戻した。
箱も。
帳簿も。
書簡も。
何も動いていないように。
最後に灯りを消す。
翌日。
昼前。
《鴉樽》の扉が開いた。
ログが振り返る。
昨日の女が立っていた。
「早かったね」
夫人は答えなかった。
手には、小さな鞄を持っている。
主がカウンターの向こうから見る。
「分かったか」
夫人は店内へ入り、扉を閉めた。
「昨日」
静かな声だった。
「私は、夫について調べると言いました」
「うん」
「訂正します」
夫人は鞄から、何枚もの紙を取り出した。
机の上へ置く。
「調べるべきは、私の家でした」
ログの顔から笑みが消えた。
レオが紙へ手を伸ばす。
夫人はその手を止めなかった。
「夫だけではありません」
一番上の紙には、十九年前の日付がある。
その下に。
彼女の父親の名があった。
「父も関わっています」
誰も口を開かなかった。
夫人は続けた。
「そして、おそらく父だけでもありません」
主が煙草を取った。
「どこまでだ」
「まだ分かりません」
夫人は答えた。
「ですが、一つだけ分かりました」
ログが顔を上げる。
「何?」
夫人は十九年前の書類を指した。
「これは、最高司令官一人の独断ではありません」
そして、家の帳簿を書き写した紙を重ねた。
「止めなかったことで、利益を得た者たちがいます」
《鴉樽》が静まり返った。
四年前に死んだ女が残した、小さな紋。
それを追った先にあったのは、一人の男ではなかった。
十九年間。
王の命令の下に隠れて生き続けた、人と金の繋がりだった。




