第11章 ④
翌日。
昼を少し過ぎた頃、《鴉樽》の扉が開いた。
入ってきたのは、一人の女だった。
年は四十前後。
派手な装いではない。
だが、仕立てのいい外套も、歩き方も、この辺りの人間ではないことくらいはログにも分かった。
女は店内を一度見回した。
客は少ない。
正確には、少なくしてある。
いつもの常連たちは朝から追い出されていた。
ただし、本当に帰ったかどうかは知らない。
たぶん近くにいる。
「こちらでよろしいのかしら」
女が言った。
主はカウンターの向こうから答えた。
「ああ」
女の視線が主へ向く。
「昨日、妙な手紙を寄越したのはあなた?」
「妙か?」
「妙でないと思って書いたのなら、その方が問題です」
ログが横を向いた。
笑ったらまずい。
レオは最初から主を見なかった。
「座れ」
主が言う。
「その前に」
女は動かなかった。
「あなた方は何者です?」
「酒場だ」
「見れば分かります」
「なら聞くな」
レオが小さく息を吐いた。
女はしばらく主を見ていた。
それから、空いている椅子へ座った。
「夫には知らせていません」
ログが顔を上げた。
「何で?」
女は初めてログを見た。
「四年前。男児。夫の生家の紋」
昨日の文面を、そのまま口にする。
「これだけ書かれて、本人に見せてから来るほど、私は素直ではありません」
「なるほど」
「それに」
女の目が細くなった。
「夫に関する話なら、まず私が聞きます」
主が煙草を灰皿へ押しつけた。
「話が早い」
「早くしたいなら、あの手紙をどうにかすべきでした」
「三回直した」
「……あれで?」
ログが耐えきれずに下を向いた。
肩が震えた。
「笑っているの?」
「いや」
「笑っていますね」
「ごめん」
レオが話を戻した。
「確認したいものがあります」
紙を一枚、机の上へ置く。
産着に縫われていた刺繍を、形が分かるよう正確に写したものだった。
夫人の目がそこへ落ちる。
表情が止まった。
さっきまでとは違う。
紙へ手を伸ばし、近くへ引き寄せた。
「……どこで、これを?」
主が答えた。
「知ってるか」
夫人はすぐには答えなかった。
指先で紙の端を押さえたまま、紋を見ている。
「夫の生家の紋です」
ログとレオが目を合わせた。
やはり間違いない。
「今の家のものではありません」
夫人は続けた。
「夫が私の家へ入る前に使っていたものです。細部は少し違いますが、これを見て別の家のものだとは思いません」
「細部が違う?」
ログが聞いた。
「ええ。正式な紋を正確に写したものではないように見えます」
それも、産着の刺繍と一致する。
見本を横に置いて、職人が正確に縫ったものではない。
「それで」
夫人が顔を上げた。
「これは、どこにあったものです?」
主は答えた。
「赤ん坊の産着」
夫人の目が動いた。
ほんのわずかだった。
だが、ログには分かった。
「四年前の?」
「ああ」
「男の子」
「ああ」
夫人は黙った。
しばらくしてから、静かに聞いた。
「母親は?」
「死んだ」
「いつ?」
「四年前」
「子供を産んで、すぐ?」
「そこまでは分からねえ。ここへ来た時には弱ってた。その日のうちに死んだ」
夫人の視線が、もう一度紙へ落ちた。
「その子は?」
「生きてる」
「今も?」
「ああ」
沈黙が落ちた。
夫人は考えていた。
怒っているようには見えない。
少なくとも、まだ。
「父親は?」
ログが答えた。
「記録には、別の男が載ってる」
夫人がログを見る。
「記録?」
「軍の」
そこで初めて、夫人の表情が明確に変わった。
「軍の、何の記録です?」
レオが答える。
「管理されていた者たちの記録です」
夫人は紙から手を離した。
「最初から説明してください」
声が変わった。
さっきまでの、怪文書を寄越した相手への警戒とは違う。
「何を調べていて、なぜ四年前に死んだ女性と、その子供が出てくるのか」
ログは主を見た。
主が顎を動かす。
話せ、ということらしい。
ログは十九年前のことから話した。
地下の仕組みが壊れたこと。
王が止めるよう命じたこと。
それでも記録が消えず、部署や名前を変えながら管理が続いていたこと。
四年前。
一人の女が、赤ん坊を連れて逃げたこと。
東側の水路まで辿り着いたこと。
そして、その女が抱いていた赤ん坊がヴィクだったこと。
夫人は一度も口を挟まなかった。
「軍の記録じゃ、母親も子供も行方不明のまま」
ログは言った。
「父親として書かれてる男も、管理されてた人だった。母親も同じ。二人とも適性が高いって記録されてる」
「適性とは?」
白衣が口を開いた。
「命令や誘導に対する反応だ」
夫人が白衣を見る。
「あなたは?」
「研究者だ」
「どこの?」
「昔の施設だ」
「……そう」
夫人はそれ以上聞かなかった。
何かを飲み込んだようだった。
ログは続けた。
「それで、産着を調べた」
「なぜ?」
「前から紋があるのは知ってた。でも、昨日分かったんだ。産着を作った時から入ってたんじゃない。あとから誰かが縫ってる」
夫人の視線が紙へ戻る。
「母親が?」
「分からない。でも、その可能性はある」
「なぜ、この紋を?」
「それも分からない」
ログはそこで一度止まった。
「だから調べた」
母親の記録を、子供の頃まで遡ったこと。
地下の仕組みが壊されるより前から、施設で管理されていたこと。
そして同じ頃。
まだ婿入りする前の最高司令官が、その施設へ何度も出入りしていたこと。
夫人は動かなかった。
「夫が?」
「記録では」
レオが答えた。
「物資や施設管理に関わる立場で、頻繁に訪れていた時期があります」
「その女性が、子供だった頃?」
「はい」
長い沈黙が落ちた。
やがて夫人が聞いた。
「二人が直接会っていた記録は?」
「ありません」
「話した記録は?」
「ありません」
「夫が、その女性に何かしたという記録は?」
「ありません」
夫人はログを見る。
「では、何が分かっているの?」
ログは答えた。
「同じ時期に、同じ場所にいた」
それだけだった。
夫人はしばらく黙っていた。
「そして、その女性は何年も後、自分の息子の産着に夫の生家の紋を縫ったかもしれない」
「うん」
「理由は分からない」
「分からない」
「子供の父親は、軍の記録では別人」
「そう」
「その記録が正しいかどうかは?」
ログは答えなかった。
代わりに白衣が言った。
「保証できない」
レオが目を閉じた。
夫人が白衣を見る。
「なぜ?」
「記録を作った側が軍だからだ」
「つまり」
夫人の声が低くなった。
「あなた方は、夫がその子の父親である可能性があると?」
「違う」
ログがすぐに言った。
「そこまでは言ってない」
「では、ないと言えるの?」
「それも言えない」
言ってから、ログは気づいた。
夫人の目が細くなる。
「……何だよ」
「いいえ」
「今、何か思っただろ」
「あなた方が、ずいぶん面倒なものを持ってきたと思っただけです」
「俺たちだって困ってんだよ」
「でしょうね」
夫人はもう一度、紋の写しを見た。
怒鳴らなかった。
取り乱しもしなかった。
ただ、さっきまでよりずっと静かになっていた。
「この紙をいただけますか」
レオが主を見る。
主は首を振った。
「駄目だ」
夫人が主を見る。
「なぜ?」
「まだこっちで使う」
「では、写しても?」
「好きにしろ」
夫人は懐から小さな手帳を出した。
紙の紋を見ながら、手早く形を写していく。
迷いがない。
描き終えると、手帳を閉じた。
「一つだけ」
「何だ」
主が聞く。
「その子に会わせていただけますか」
店の奥から、小さな物音がした。
全員がそちらを見る。
夫人も見る。
ログは頭を掻いた。
「……いるけど」
「ここに?」
「うん」
主が立ち上がった。
「今日は駄目だ」
夫人の眉が動く。
「なぜ?」
「話を聞きに来たんだろ」
「ええ」
「なら今日は、それで帰れ」
夫人は主を見た。
主も見返した。
しばらくして、夫人が立ち上がる。
「分かりました」
意外なほどあっさり引いた。
外套を整え、扉へ向かう。
その途中で足を止めた。
「夫には、まだ話しません」
ログが聞く。
「まだ?」
夫人は振り返った。
「私にも、調べられることがあります」
その顔には、最初に店へ入ってきた時の警戒はもうなかった。
代わりに別のものがあった。
何を疑っているのか。
誰を疑っているのか。
ログには分からない。
夫なのか。
軍なのか。
記録なのか。
それとも全部なのか。
「分かったことがあれば?」
レオが聞いた。
夫人は扉へ手をかけた。
「こちらから来ます」
扉が閉まった。
少しして。
店の奥からヴィクが顔を出した。
「もういい?」
ミナも後ろから出てくる。
「もう大丈夫よ」
ヴィクが店内を見回した。
「だれ?」
ログが答える。
「偉い人の奥さん」
「えらい?」
「たぶん」
主が新しい煙草をくわえた。
レオは閉じた扉を見ている。
「動きますね」
「うん」
ログも扉を見る。
最高司令官の妻。
元軍上層家の娘。
そして今。
夫には話さず、自分で調べると言って帰った。
主が火をつけた。
「これで中にも一人だ」
ログが笑った。
「母ちゃん、すげえな」
誰も答えなかった。
産着に残された小さな紋が、四年経ってようやく、最高司令官のすぐそばまで届いていた。




