第11章 ②
「誰が?」
ログが聞いた。
誰も答えなかった。
机の上には、小さな産着が広げられている。
四年前、ヴィクが身につけていたもの。
胸元には刺繍。
軍の最高司令官が婿入りする前に生まれ育った家。
その生家に残る紋と、よく似ている。
そこまでは、すでに調べていた。
だが。
この刺繍が、産着を仕立てたときに入れられたものではない。
それを今、初めて知った。
ログは刺繍を見た。
「後からって、どのくらい後?」
ミナが首を振る。
「そこまでは分からないよ」
「着る前?」
「分からない」
「着てから?」
「だから分からないって」
「何か分かんない?」
「分かることなら言ってる」
ログは黙った。
ミナは産着を裏返す。
「でも、これを縫った人は、あまり上手じゃないと思う」
「下手?」
「下手っていうほどじゃないけど」
ミナは産着本体の縫い目を指した。
細かい。
間隔も揃っている。
次に刺繍の裏を指す。
こちらは少し不揃いだった。
「服を縫った人とは違うと思う」
レオも覗き込む。
「職人ではない?」
「たぶん」
ログが刺繍を見る。
「じゃあ、誰かが自分で縫った?」
「そうかもしれない」
主は煙草を吸いながら黙っている。
白衣も刺繍を見た。
「何だよ」
ログが聞く。
「いや」
「何か分かった?」
「裁縫は知らん」
「じゃあ見るなよ」
「見ていたら何か思い出すかもしれん」
「便利な言葉だな、それ」
レオが産着の横へ、以前写した紋の図を置いた。
最高司令官の生家に残されていたものだ。
二つを並べる。
ログが交互に見る。
「やっぱり似てる」
「似ているな」
「同じ?」
レオはすぐには答えなかった。
刺繍は小さい。
しかも職人が正確に縫ったものではない。
線が少し曲がっている。
長さも揃っていない。
それでも。
大きな形は一致している。
「偶然でこれになる?」
ログが聞いた。
「可能性は低いだろう」
「じゃあ、これを知ってる奴が縫った」
「そう考えるのが自然だ」
ログは椅子へ座った。
「軍が縫わせた?」
ミナが産着を見る。
「だったら、もっと上手な人に頼まない?」
ログが止まった。
「……確かに」
軍が管理していた子供につける印なら、わざわざ不慣れな人間に刺させる理由がない。
決まった印なら、なおさらだ。
同じ形を。
同じ場所へ。
誰が見ても分かるように。
そうするはずだ。
だが、ヴィクの産着にある刺繍は違う。
線は少し歪んでいる。
糸の始末も綺麗ではない。
誰かが。
手元にあった産着へ。
自分で縫った。
ログが顔を上げた。
「母親?」
部屋が静かになった。
ミナが産着を見る。
「可能性はあると思う」
レオも否定しなかった。
主が煙を吐く。
「逃げる前か」
「逃げてからか」
ログが続けた。
四年前。
女はヴィクを抱いて逃げた。
軍に追われながら東へ向かった。
そして《鴉樽》へ辿り着いた。
その日のうちに死んだ。
逃亡中に針と糸を手に入れたのか。
逃げる前に準備したのか。
それは分からない。
だが。
もし母親が縫ったのなら。
ログは産着を指した。
「何で、こいつの家の紋?」
誰も答えなかった。
レオが言う。
「司令官は当時、最高司令官ではない」
「分かってる」
「中央で物資と施設の管理に関わっていた」
「それも分かってる」
ログは紋を見た。
「だから余計に変だろ」
母親は管理されていた。
外との接触も制限されていた。
自由に軍人の家系を調べられる立場ではない。
その女が。
なぜ、この紋を知っていたのか。
なぜ覚えていたのか。
そして。
なぜ自分ではなく、赤ん坊の服へ残したのか。
白衣が口を開いた。
「本人が説明できないなら、理由は分からん」
ログが睨む。
「分かってるよ」
「ならいい」
「でも考えるくらいいいだろ」
「好きにしろ」
「するよ」
ログは腕を組んだ。
「これを見つけた奴はどう思う?」
レオが見る。
「何が」
「母親が死んだ後。赤ん坊だけ見つかったとして」
ログは産着を指した。
「この紋が付いてる」
レオの目が、刺繍へ落ちた。
ログが続ける。
「調べるだろ?」
「ああ」
「この家にたどり着く」
「ああ」
「その家の出身者を調べる」
レオは答えなかった。
ログが少しずつ顔を上げた。
「……司令官に行くじゃん」
ミナが瞬きをした。
主の口元から煙が上がる。
「でも」
ログは言った。
「ヴィクの父親は別にいる」
四年前の記録。
父親。
高適性。
管理対象。
母親との組み合わせも記録されている。
少なくとも、残っている書類の上では。
ヴィクの父親は最高司令官ではない。
「じゃあ、何で」
ログは刺繍を見る。
「こいつの紋を付ける?」
レオが静かに言った。
「父親だと思わせるためなら説明はつく」
ログが止まった。
ミナもレオを見る。
「……わざと?」
「仮定だ」
「でも」
ログの顔が変わる。
「母親、死んでる」
誰も答えない。
「本人に聞けない」
レオが頷く。
「そうだな」
「父親は俺じゃないって言われても」
ログは机の上の記録を見る。
軍が作った記録。
軍が管理した男女。
軍が決めた組み合わせ。
軍が記録した出産。
その軍の中枢にいる男が、自分の子ではないと言う。
「記録見せられても」
ログが言った。
「その記録作った側じゃん」
レオが息を吐いた。
「そうなるな」
ログはしばらく黙った。
やがて。
「……嵌めた?」
白衣が顔を上げた。
「誰を」
「司令官」
「誰が」
ログは産着を指した。
「ヴィクの母親」
白衣は産着を見る。
「証明はできんな」
「分かってるよ」
「本人が死んでいる」
「それも分かってる」
ログは机の上の記録へ目を落とした。
四年前。
母親。
適性判定、高。
その文字を見て、動きが止まる。
「……待って」
レオが見る。
「何だ」
ログは記録を持ち上げた。
「この人、高適性だったんだよな」
「ああ」
「高い方なんだよな?」
「そう記録されている」
ログは黙った。
適性が高い。
命令への反応が強い。
繰り返されたものが残りやすい。
だから選ばれた。
管理された。
相手を決められた。
子供を産んだ。
軍は、この女を扱いやすい人間だと判断していた。
その女が。
子供を連れて逃げた。
ログは産着を見る。
「ずっと命令されてたんだよな」
「ああ」
「子供も渡せって言われてた」
「そうだな」
「それで逃げた」
誰も答えなかった。
ログは刺繍へ目を落とした。
完成した産着へ、後から加えられたもの。
職人が縫ったとは思えない、不揃いな糸。
最高司令官の生家に残る紋。
もし。
これを母親が縫ったのなら。
逃げるだけではない。
自分が捕まる可能性も考えた。
死ぬ可能性も考えた。
それでも、子供だけは残るかもしれない。
そのとき。
誰かが産着を見る。
紋に気づく。
調べる。
そして。
司令官の生家へ辿り着く。
「……この人」
ログが小さく言った。
「そこまで考えてた?」
レオはすぐには答えなかった。
「分からない」
「でも、あり得る?」
「あり得ないとは言えない」
白衣が口を開く。
「適性が高いことと、考える力が低いことは別だ」
ログが白衣を見る。
「命令に従いやすいんだろ?」
「特定の刺激や条件に対する反応が強い。それだけだ」
白衣は記録を指した。
「馬鹿になるわけではない」
ログは黙った。
その言葉を、もう一度考える。
軍は。
従う人間を作った。
だが。
考えられない人間を作ったわけではない。
地下の仕組みがなくなった。
管理が緩んだ。
子供が生まれた。
少しずつ。
命令より強いものができた。
そして最後に。
この女は、自分で決めた。
ヴィクを渡さない。
逃げる。
その先まで。
「強えな」
主が言った。
ログが顔を上げる。
主は産着を見ていた。
「うん」
ログは笑わなかった。
「強い」
四年前。
名前も知らなかった女。
ほとんど何も話せないまま死んだ女。
赤ん坊だけを残した女。
ただ逃げてきたのだと思っていた。
違ったのかもしれない。
十五年。
命令に従いながら。
管理されながら。
それでも、全部を失ったわけではなかった。
そして最後に。
自分の子供を抱いて、外へ出た。
ログは刺繍へ指を近づけた。
触れずに止める。
「これ、残したんじゃない?」
レオが見る。
「何を」
ログは少し考えた。
「喧嘩」
主が新しい煙草を取り出した。
火をつける。
「なら」
煙を吐く。
「買ってやれ」
ログは今度こそ笑った。
「うん」




