第10章 ⑩
十九年前。
地下の仕組みが壊れた直後、王宮は関連事業の停止を命じていた。
新規対象者の受け入れ停止。
新規登録の停止。
施設の段階的閉鎖。
既存対象者については、状態を確認した上で管理を解除する。
ログは最後の一文を指した。
「解除って、帰すってこと?」
古参が記録を見る。
「本来なら、そういう意味だろう」
「本来なら?」
「次を見ろ」
軍からの返答が残っていた。
長期間にわたり管理下に置かれた対象者を急に解放した場合、社会生活への適応に問題が生じる可能性がある。
段階的な移行が必要。
ログは読んだ。
「……それっぽいこと言ってる」
「間違ってはいない」
白衣が言った。
ログが見る。
「そうなの?」
「幼少期から閉じた環境で育てられた人間を、突然外へ出せば問題が起きる可能性はある」
「じゃあ軍が正しい?」
「そこだけならな」
白衣が次を指した。
その下には、移行期間として軍が求めた年数が書かれていた。
ログの眉が寄る。
「長くない?」
「長いな」
レオが答えた。
さらに軍は、適性者の一部について管理継続を求めていた。
理由。
軍務上の必要性。
本人の安全。
周囲への影響。
機密保持。
「最後のが本音じゃない?」
ログが言った。
「一つではないだろう」
レオは記録をめくった。
王宮は認めなかった。
期間短縮。
対象者の再審査。
子供については原則として軍管理から外す。
再び軍が異議を出す。
再び王宮が返す。
同じやり取りが続いていた。
その間にも施設は残った。
人も残った。
だが。
「ここからだな」
白衣が言った。
地下の仕組みが壊れて数月後。
管理施設から上がった報告の内容が変わっていた。
指示への反応低下。
反復訓練における定着率の低下。
過去に確認されていた反応の一部が再現できない。
ログが紙へ顔を近づけた。
「壊したから?」
「可能性はある」
「お前、あれが何してたか分かってた?」
「全部は知らん」
「責任者だったのに?」
「聞かれてない」
「今それ言う!?」
レオがログの肩を押した。
「続き」
「はいはい」
報告は増えていた。
命令を繰り返さなければ従わない。
以前なら反応していた合図に反応しない。
自分から質問する。
指示の理由を尋ねる。
拒否する。
ログの手が止まった。
「戻ってる?」
白衣は少し考えた。
「何に?」
「普通に」
「普通とは何だ」
「面倒くさいな!」
「曖昧な言葉を使うからだ」
ログは紙を白衣の前へ突き出した。
「じゃあこれは?」
白衣が読む。
「命令への反応が変化している」
「それを普通に戻ってるって言うんだよ」
「それはお前の判断だ」
「もうそれでいい!」
次の記録へ進む。
変化は全員に同じように出たわけではなかった。
ほとんど変わらない者。
少しずつ反応が変わる者。
命令に従い続ける者。
混乱する者。
眠れなくなる者。
怒りやすくなる者。
泣く者。
それまで見られなかった行動を取る者。
長く続けられたものが、地下の仕組みが止まっただけですべて消えたわけではない。
教育も残っている。
訓練も残っている。
覚えていることも残っている。
それでも。
以前と同じではなくなった。
「それで終わった?」
ログが聞いた。
古参が首を振った。
「終わっていない」
その先にも記録があった。
ただし、形が変わっている。
王宮から停止を命じられた事業名は消えていた。
施設の名前も変わった。
担当部署もなくなった。
予算項目も消えた。
それなのに。
適性者の記録は残っている。
別の名目で。
軍人の訓練記録。
軍属の健康管理。
家族への生活支援。
児童の保護。
物資の支給。
一つずつ見れば、どこにもおかしなところはない。
だが、並べると。
同じ番号が残っていた。
ログが顔をしかめた。
「名前変えただけじゃん」
「一つにまとめていたものを分けたんだろう」
レオが言った。
「何で?」
「止めろと言われたからだ」
ログは黙った。
専用の施設を残せば見つかる。
専用の部署を残せば分かる。
専用の予算を組めば、王宮から追える。
ならば。
分ける。
人は軍の施設へ。
物資は通常の倉庫へ。
金は別の名目へ。
書類は複数の役所へ。
運搬は民間の商いに混ぜる。
一人の役人には、一枚の紙だけを渡す。
ログは、机の上に広がる記録を見た。
「……俺たちが今追ってたやつじゃん」
レオが頷いた。
普通の役所。
普通の倉庫。
普通の商館。
誰も全体を知らない。
十九年前。
もう、その形へ変わり始めていた。
「王様に隠したのか」
ログが言った。
古参が低く答える。
「少なくとも、止めろという命令には従っていない」
記録をさらに追った。
十八年前。
十七年前。
十六年前。
数は減っている。
以前ほど大きな施設はない。
対象者も減っている。
だが、なくならない。
適性者。
その家族。
子供。
番号は細々と続いていた。
地下の仕組みはもうない。
以前と同じ反応を維持することも難しくなっている。
だから軍は、訓練を増やした。
反復を増やした。
監視を増やした。
外との接触を減らした。
それまで地下の仕組みに頼っていた部分を、人間の手で補おうとしていた。
「しつこいな」
ログが言った。
誰も否定しなかった。
年月が進む。
その途中から、別の記録が混じり始めた。
母親による命令拒否。
子供との分離への抵抗。
移送時の混乱。
所在不明。
逃亡。
最初から多かったわけではない。
毎年あるわけでもない。
何年も何も起きないこともある。
だが、消えなかった。
ログは一枚を取った。
母親一名。
子供の移送命令を拒否。
次。
子供を別施設へ移すとの通知後、母子ともに所在不明。
次。
母親を確保。
子供は所在不明。
さらに別の記録。
子供のみ確保。
母親逃走。
「回収」
ログが、その記載を見た。
「また物みたいに書いてる」
誰も答えなかった。
捕まった母親への聞き取りも残っていた。
子供を渡したくなかった。
戻ってこないと思った。
遠くへ連れていかれるのが怖かった。
理由を尋ねても、それ以上うまく説明できない者もいた。
ただ。
この子を渡してはいけないと思った。
それだけを繰り返した者もいる。
ログは、その一文を長く見ていた。
「何で?」
白衣が答える。
「分からん」
「地下のあれが止まったからじゃないの?」
「それだけなら、もっと早く一斉に起きてもいい」
ログは黙った。
「長く受けた教育も訓練も消えていない。人によって反応も違う。子供を持った時期も違う」
白衣は記録をめくった。
「一つの理由だけで説明する方がおかしい」
ログは嫌そうな顔をした。
「じゃあ、何個も重なった?」
「それならあり得る」
地下の仕組みがなくなった。
王宮から停止命令が出た。
施設が縮小された。
人員が減った。
以前ほど完全には管理できなくなった。
そして。
子供が生まれた。
抱いた。
泣くのを聞いた。
自分を見て手を伸ばす。
それまで命令に従ってきた人間の中に、別のものができる。
ログは紙を見た。
「子供の方が大事になった?」
白衣は少し考えた。
「そういう者もいたんだろう」
軍も変化に気づいていた。
親子の分離時期を早める。
母親への監視を強化する。
移送予定を事前に知らせない。
外部との接触を制限する。
逃亡時には子供の確保を優先する。
ログの顔が変わった。
「子供を?」
「ああ」
「母親じゃなくて?」
「そう書いてある」
「何で」
レオは答えなかった。
白衣が別の紙を取った。
子供の適性は未確定。
ただし両親の適性が高い場合、将来的な有用性が見込まれるため、管理対象から外さないこと。
ログの指が止まった。
「……あるかもしれないから?」
さっきの資料で読んだ言葉だった。
分かっていない。
確かめてもいない。
それでも。
可能性がある。
だから手放さない。
ログは、その先の年代を追った。
八年前。
七年前。
六年前。
五年前。
そして。
四年前。
一枚の記録で、手が止まった。
成人女性。
適性判定、高。
配偶者。
適性判定、高。
出産。
男児。
出生時より管理対象。
ログは黙った。
その下。
母親、子供を伴い所在不明。
捜索。
東側区域。
水路周辺。
ログの指が止まった。
レオも気づいた。
白衣が紙を覗く。
誰も、すぐには口を開かなかった。
四年前。
東側。
水路。
母親。
男の赤ん坊。
ログは、ゆっくり顔を上げた。
「……ヴィクだ」
声が小さかった。
レオが記録を引き寄せる。
日付を確認する。
もう一度読む。
母親は逃げた。
子供を連れて。
軍は追った。
理由は書かれている。
子供の確保。
適性未判定。
両親ともに高適性。
将来的な有用性あり。
ログの顔が変わった。
「こいつが何になるかも分かってないのに」
誰も答えなかった。
「普通に育つかもしれないだろ」
沈黙。
「何にも向いてないかもしれない」
ログは紙を握った。
「それでも連れてくのか」
レオが低く言った。
「可能性があるからだ」
ログは目を閉じた。
四年前。
あの女は、何も説明しなかった。
できなかった。
ただ赤ん坊を抱いていた。
逃げて。
追われて。
《鴉樽》まで辿り着いた。
そして、その日のうちヴィクを抱いたまま死んだ。
ログは紙を机へ戻した。
「この子を渡したら駄目だって」
誰も何も言わなかった。
それだけだったのかもしれない。
国を変えようとしたわけではない。
軍を倒そうとしたわけでもない。
仕組みを知っていたわけでもない。
ただ。
自分の子供を渡したくなかった。
だから逃げた。
ログは、その記録の続きを探した。
母親。
死亡確認なし。
子供。
未回収。
捜索継続。
その後、記録は途切れていた。
「見つけられなかったんだ」
レオが言った。
ログは答えなかった。
《鴉樽》にいた。
主がいた。
ミナがいた。
地下街の人間がいた。
四年間。
ヴィクは、そこで育った。
ログは次の紙を取った。
四年前で終わりではなかった。
三年前。
別の母親。
二年前。
別の子供。
昨年。
そして現在。
つい数日前、彼らが農場から連れ出した女と赤ん坊。
同じだった。
王は十九年前に止めろと命じた。
地下の仕組みも十九年前に壊れた。
それでも。
軍の中の誰かが、十九年間、形を変えながら続けていた。
ログは十九年前の停止命令を取った。
その隣に、四年前のヴィクの記録を置く。
さらに、現在の記録を置いた。
三枚。
「王様は止めろって言った」
レオが頷く。
「軍は止めなかった」
「少なくとも、一部はな」
ログは三枚の紙を見た。
十九年前。
四年前。
現在。
一本につながっている。
「じゃあ」
ログが顔を上げた。
「止めなかった奴を探せばいいんだな」
レオも立ち上がった。
「もう探している」
ログが見る。
レオは、現在の記録を指した。
倉庫。
商館。
軍の物資。
司令官府。
そして。
現在の軍の最高司令官。
ログはしばらく黙った。
それから、四年前の紙を取った。
「帰ろう」
「どこへ?」
ログはもう扉へ向かっていた。
「ヴィクんとこ」




