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第9章⑧ 知っている女

「どうして、その子がここにいるの」


女の声は小さかった。


だが、《鴉樽》の中にははっきり響いた。


ログがヴィクを見る。


ヴィクは何も分かっていない。


ミナの横に立ったまま、知らない女を見ている。


主が女を見る。


「知ってるのか」


女は答えない。


視線はヴィクの首元に向いたままだった。


ログが一歩動く。


「ヴィクを?」


女がようやくログを見た。


「ヴィク?」


「その子の名前」


女の目が揺れた。


「名前……」


その反応を見て、レオが口を開く。


「この子自身を知ってるわけじゃない?」


女はゆっくり頷いた。


「その子は知りません」


ログが首を傾げる。


「じゃあ何で」


女はヴィクを指した。


正確には、その首元。


小さな紐の先にあるもの。


「それです」


ミナがヴィクの前へ出る。


「これ?」


手に取った。


古びた小さな飾り。


ヴィクが《鴉樽》へ来た時から持っていたものだった。


産着と一緒に残されていた。


女が頷く。


「同じものを知っています」


主の目が細くなる。


「どこで見た」


女はすぐには答えなかった。


抱いている子供が小さく動く。


ミナが椅子を引いた。


「座って」


女は迷った。


もう一人の女が先に座る。


「大丈夫」


その言葉で、ようやく子供を抱いた女も腰を下ろした。


ヴィクはまだ見ている。


ミナが奥を指した。


「ヴィク。向こうにいよう」


「何で?」


「いいから」


「僕もいる」


「駄目」


「何で?」


ミナが黙って見る。


ヴィクは少し考えた。


「……分かった」


素直に奥へ行った。


ログが小さく言う。


「強いな」


白衣が頷く。


「主より強い」


主が白衣を見る。


白衣はパンを食べた。


女が少しだけ目を丸くした。


張りつめていた空気が、ほんの少し緩む。


主が改めて聞いた。


「どこで見た」


女は首元の飾りを思い出すように答えた。


「私がいた場所です」


ログがすぐに聞く。


「今日の地下施設?」


「違います」


「じゃあどこ」


レオが止める。


「一つずつ聞け」


ログが黙る。


女は子供を抱き直した。


「私は、王都の外で暮らしていました」


「普通に?」


レオが聞く。


「はい。夫と、この子と」


「もう一人の人は?」


隣の女が答える。


「私は妹です」


姉妹だった。


姉の方が子供の母親。


妹は一緒に暮らしていた。


「いつ連れて行かれた?」


「六日前です」


ログの眉が動く。


「連れて行かれた?」


姉が頷く。


「役人が来ました」


「何の役人」


「分かりません」


「軍人?」


「軍服ではありませんでした」


男は三人。


書類を持っていた。


子供について確認することがある。


そう言われた。


最初は家で済む話だと思っていた。


だが、そのまま馬車へ乗るよう言われた。


姉が拒むと、子供だけでも連れて行くと言われた。


だから妹も一緒に乗った。


「それで、あの地下施設へ?」


「最初は違う場所でした」


レオが地図を出す。


「分かる?」


女は首を振った。


「窓を塞がれていました」


何度か移された。


最初の建物。


次の建物。


そして今日、地下の場所から農場へ。


どこも名前は知らない。


誰が管理しているのかも知らない。


ログが聞く。


「何をされた?」


女の腕に力が入った。


「聞かれました」


「何を」


「子供のことです」


生まれた日。


生まれた場所。


父親。


母親。


祖父母。


病気。


食べ物。


眠る時間。


言葉を話し始めたか。


知らない人間を怖がるか。


泣いた時、何をすれば落ち着くか。


ログの顔から表情が消えていく。


白衣もパンを食べるのをやめた。


レオが聞く。


「検査は?」


「ありました」


「どんな」


「血を少し」


白衣が顔を上げた。


「血?」


「はい」


「他は」


「口の中を見られました。目も。手も」


白衣が考える。


「薬は?」


「飲まされそうになりました」


ログが立ち上がりかける。


レオが見る。


ログは座ったまま耐えた。


古参が感心する。


「今日は本当に」


「言うな」


姉が続ける。


「飲ませませんでした」


「拒否できた?」


「最初は」


その言葉で、空気が変わった。


「最初は?」


主が聞く。


「今日、子供だけ別へ移すと言われました」


妹が姉の代わりに答えた。


「姉が拒んだら、男たちが来ました」


それが農場にいた者たちだった。


ログが拳を握る。


今度は誰も何も言わなかった。


レオが話を戻す。


「さっき、ヴィクが持っているものを見て驚いた」


姉が頷く。


「はい」


「どこで見た?」


女は少し迷ってから答えた。


「最初にいた場所に、年配の女の人がいました」


ログが見る。


「同じように連れてこられた人?」


「違うと思います」


「働いてた?」


「多分」


年齢は五十を過ぎていた。


食事を運んでくる。


子供の世話もする。


だが、男たちとは違った。


姉妹に逃げろとも言わなかった。


助けるとも言わなかった。


ただ、子供を見ていた。


ある夜。


姉の子供が泣き止まなかった。


その女が抱いた。


そして、首元から小さな飾りを出した。


ログがヴィクの方を見る。


奥からは見えない。


「同じだった?」


「はい」


姉は頷いた。


「多分、同じです」


「何て言ってた?」


姉は記憶を辿った。


「昔、これを持って逃げた人がいた、と」


ログが動かなくなった。


主も黙っている。


レオが静かに聞く。


「いつの話か聞いた?」


「かなり昔だとしか」


「名前は?」


「聞きました」


ログが顔を上げる。


「誰」


女は答えた。


聞いたことのない女の名前だった。


ログは主を見る。


主の反応もない。


ミナも知らない。


ヴィクの母親が《鴉樽》へ辿り着いた時、自分の名前を名乗る余裕はほとんどなかった。


残されたものも少ない。


ログが聞く。


「その名前の女が、これを持って逃げた?」


「いいえ」


姉が首を振った。


「その人は、逃げた人じゃありません」


「じゃあ誰?」


「その年配の女の人です」


レオが理解した。


「自分の名前を教えたのか」


「はい」


ログが身を乗り出す。


「その人、今どこにいる?」


姉妹の顔が曇った。


「分かりません」


「何で」


「昨日から見ていません」


ログがレオを見る。


「探す」


「待て」


「何で!」


「場所が分からない」


「じゃあ調べる!」


「それはそうだ」


ログが止まった。


「止めるなよ!」


「まだ話が終わってない」


姉が二人を見ていた。


少し困った顔をしている。


ログは座り直した。


「他に何か言ってた?」


「少しだけ」


年配の女は、その飾りを見せながら言った。


昔。


同じ場所に、何人もの母親と子供がいた。


ある時、そのうち何人かが逃げた。


子供を連れて。


追う者が出た。


戻された者もいた。


戻らなかった者もいた。


そして。


一人だけ、東へ逃げた女がいた。


ログの目が変わった。


「東?」


「はい」


姉は頷いた。


「水路の方へ逃げた、と」


《鴉樽》から音が消えた。


四年前。


東側水路。


傷だらけの女。


腕の中の赤子。


主が見つけた。


女はその日のうちに死んだ。


赤子だけが残った。


ヴィク。


ログが小さく聞く。


「その女、何か持ってたって?」


「赤ん坊です」


「他に」


姉は首元を指した。


「その飾りを持たせていた、と」


ミナが奥を見る。


そこにはヴィクがいる。


ログは椅子から立った。


今度はレオも止めなかった。


「ヴィクの母親だ」


断定したのはログだった。


レオは少し考える。


「可能性は高い」


「そこはもういいだろ!」


「本人の名前がない」


「東の水路! 赤ん坊! 同じ飾り! 何個いるんだよ!」


「だから可能性は高いと言った」


「高いじゃなくて――」


主が止めた。


「ログ」


ログが黙る。


主は姉を見る。


「その女は、他に何を知ってる」


「分かりません」


「軍のことは」


「話しませんでした」


「研究所は」


「それも」


白衣が聞く。


「地下機構は」


女は首を傾げた。


知らない。


白衣が頷く。


「なら、そこは知らん」


古参が年配の女の名前を書き留める。


「年齢は五十過ぎ?」


「多分」


「六十には?」


「見えませんでした」


古参が考える。


十九年前なら三十代。


十分にあり得る。


レオも同じ計算をしていた。


「当時からいた可能性がある」


「生き証人か」


ログが言う。


「見つければな」


主が答えた。


その時、入口が開いた。


常連が入ってきた。


皆がそちらを見る。


「何」


常連が一瞬ひるんだ。


「何で全員見るんだよ」


「逃がした奴は?」


ログが聞く。


「ああ。それ」


男は卓へ来た。


「王都に戻った」


「どこへ」


「最初は商館」


レオが立つ。


「その後は?」


「すぐ別の男が出た」


「追った?」


「当然」


常連が笑った。


「司令官府に入った」


ログが主を見る。


まただ。


逃がした男。


商館。


そして司令官府。


過去だけではない。


今日の出来事が、同じ場所へ集まっていく。


常連が続ける。


「それと、もう一つ」


主が聞く。


「何だ」


「司令官府を見てた奴から伝言」


レオの顔が変わる。


「動いたか」


「ああ」


「誰が」


常連は少しだけ間を置いた。


「最高司令官」


ログが黙った。


「本人が出てきた」


「どこへ」


「馬車に乗った」


主が立ち上がる。


「追ってるな」


常連が笑う。


「三人で」


「多くない?」


ログが言う。


「絶対に見失うなって言われたから」


「誰に」


「俺」


壁際から声がした。


ログが振り返る。


「お前いたの!?」


主はもう入口へ向かっていた。


「行くぞ」


ログが追う。


「どこへ?」


主が答えた。


「司令官を追う」


十九年前の研究所。


ヴィクの産着。


母親と子供たち。


現在も残る施設。


そして今。


最高司令官本人が動いた。


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