第9章 ⑦
古い農場には、建物が三つあった。
母屋。
納屋。
少し離れたところに、小さな倉庫。
どれも長く使われていないように見える。
だが、母屋の前には新しい車輪の跡があった。
ログたちは木立の中から様子を見ていた。
男は四人。
一人は御者。
二人が荷車の横。
もう一人は母屋の入口にいる。
女は二人。
そのうち一人が、布に包まれた子供を抱いていた。
「どうする?」
常連が聞いた。
ログは男たちを見る。
「一人逃がす」
「本当に?」
「何で確認した?」
「念のため」
「信用ないな!」
白衣が横から言う。
「あると思ってたのか」
「お前は黙ってろ」
もう一人の常連が男たちを見ながら聞く。
「どいつを逃がす?」
ログも見る。
御者。
若い。
荷車の横にいる二人は、腰に短剣を下げている。
入口の男だけ、武器が見えない。
だが周囲を一番よく見ていた。
「あいつ」
ログが入口の男を指した。
「何で?」
「一番偉そう」
白衣が見る。
「分かるのか」
「何となく」
「大丈夫か?」
「お前ら、本当に俺を信用してないな!」
常連が笑う。
「じゃあ、あいつで」
決まった。
一人は先に裏へ回る。
もう一人は荷車側。
白衣はログの隣に残った。
ログが見る。
「お前、戦える?」
「多少は」
「十九年前、弱かったよな」
「お前が後ろから殴っただけだ」
「避けろよ」
「見えないものをどう避ける」
農場の方から声がした。
男の一人が女へ何か言っている。
女が首を振った。
男が腕を掴む。
子供を抱いている女が、庇うように前へ出た。
ログの顔から笑いが消えた。
「行く」
白衣が言う。
「一人逃がせよ」
「分かってる」
「本当に?」
「お前まで言うな!」
ログが木立を出た。
真っ直ぐ歩く。
農場の男たちが気づいた。
「誰だ!」
ログは答えない。
荷車の横にいた男が短剣を抜いた。
もう一人も続く。
入口の男が女たちを母屋へ押し戻そうとする。
その前に、反対側から常連が出た。
「そっちは駄目」
男が止まる。
「何だ、お前ら!」
ログがようやく答えた。
「迎えに来た」
「誰を」
「そっち」
女たちを見る。
男が短剣を構えた。
「関係ない。消えろ」
ログは歩き続ける。
「それ、無理」
男が踏み込んだ。
速かった。
短剣が横から来る。
ログは半歩下がった。
腕を取る。
そのまま捻る。
短剣が落ちた。
男の体勢が崩れる。
腹へ一発。
男が地面へ落ちた。
もう一人が来る。
ログは振り向く。
「二人目」
「数えるな!」
白衣の声が飛んできた。
男の拳を避ける。
肩を掴む。
足を払う。
地面へ落とす。
「二人」
「だから数えるな!」
御者が逃げようとした。
荷車へ飛び乗る。
だが御者台には、いつの間にか常連が座っていた。
「どいて」
「何で!?」
「俺が聞きたい」
御者は引きずり降ろされた。
三人。
残ったのは入口の男。
男は周囲を見る。
倒れた仲間。
荷車。
女たち。
そしてログ。
腰へ手を伸ばした。
何もない。
武器は持っていない。
ログと目が合う。
男が走った。
農場の裏へ。
ログは動かなかった。
白衣が見る。
常連も見る。
男は走る。
まだ走る。
木立へ入った。
それでもログは追わない。
白衣が少し驚いた。
「追わないのか」
「逃がすんだろ?」
「覚えてたのか」
ログが振り返った。
「覚えてるよ!」
荷車の常連まで感心している。
「偉いな」
「何で褒められてんの、俺?」
「成長した」
「今日何回目だよ!」
木立の向こう。
逃げた男は知らない。
さらに先に、もう一人いる。
農場へ来る前から別行動を取っていた常連だった。
男が街道へ出る。
常連も動く。
追跡が始まった。
農場では、ログが女たちへ近づいていた。
二人とも怯えている。
子供を抱いた女が後ろへ下がる。
「来ないで」
ログが止まった。
両手を上げる。
「分かった」
女はログを見る。
倒れている男たちを見る。
「あなたたちは……」
「敵じゃない」
白衣が後ろから言った。
「それは言い方が悪い」
ログが振り返る。
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「知らん」
「口出すな!」
女たちはさらに困惑した。
常連が倒れた男の短剣を遠くへ蹴った。
「こいつらの仲間じゃない。それだけ分かればいい」
そちらの方が通じたらしい。
子供を抱いていない女が聞く。
「軍の人では?」
「違う」
ログが答えた。
「役人?」
「違う」
「では、誰ですか」
ログが止まった。
白衣を見る。
白衣も考える。
常連を見る。
常連も考える。
「……何だろうな」
「知らん」
「酒場の人?」
「それでいいんじゃないか」
女の顔に、明らかな不安が増えた。
ログが慌てる。
「いや、怪しくないから!」
白衣が言う。
「怪しいだろ」
「黙れ!」
子供が泣いた。
小さな声だった。
ログが黙る。
女が布を抱き直す。
その隙間から、幼い顔が見えた。
まだ一歳にもなっていない。
ログの目が止まった。
ヴィクより小さい。
あの日のヴィクと、そう変わらない。
「その子」
女が身構える。
ログはそれ以上近づかなかった。
「大丈夫?」
女はしばらく答えなかった。
やがて、小さく頷く。
「今は」
今は。
ログの眉が動いた。
「どういう意味?」
女は周囲を見る。
倒れた男たち。
白衣。
常連。
逃げ道を探している。
白衣が静かに言った。
「ここで聞くな」
ログが見る。
「何で」
「また来るかもしれん」
常連も頷いた。
「逃がした奴が戻ってくる可能性もある」
「戻るかな」
「仲間連れてな」
それは困る。
ログは女たちを見る。
「移動できる?」
二人が顔を見合わせる。
「どこへ」
ログは少し考えた。
「安全なところ」
「どこですか」
「酒場」
また不安そうな顔になった。
ログが頭を抱える。
「何でだよ! 安全なんだよ!」
白衣がパンの残りを取り出した。
「子供もいる」
女が見る。
「子供?」
「ああ。四歳」
ログが白衣を見る。
「お前、それ言っていいの?」
「駄目だったか」
「知らないけど!」
常連がため息をついた。
「とにかく、ここよりは安全だ」
女たちはすぐには動かなかった。
当然だった。
知らない男たちが突然現れた。
連れていた者を殴り倒した。
一人はわざと逃がした。
そして安全だから酒場へ来いと言っている。
ログが自分たちの状況を考えた。
「……怪しいな」
白衣が頷く。
「だから言っただろ」
「お前も入ってるからな?」
それでも。
子供を抱いた女が、倒れている男を見た。
腕に残る掴まれた跡を見る。
そしてログたちを見る。
「行きます」
もう一人の女も頷いた。
ログが息を吐いた。
「よし」
常連が荷車を見る。
「これ使うか」
御者が地面から顔を上げた。
「俺の……」
「借りる」
「俺のだ!」
「じゃあ後で返す」
「どこに!?」
ログが常連を見る。
「お前ら、本当に荷車好きだな」
「便利だから」
倒した三人は縛る。
一緒には運ばない。
農場に残る常連が見張り、後から別の者を呼ぶ。
ログたちは女二人と子供を乗せた。
白衣も乗ろうとする。
ログが止める。
「歩け」
「何で」
「狭い」
「お前が歩け」
「俺が助けたんだけど?」
「俺も来た」
「何もしてないだろ!」
結局、二人とも歩いた。
荷車が王都へ戻り始める。
その頃。
逃げた男は街道を走っていた。
何度も後ろを見る。
追われていない。
そう思っている。
少し離れたところを、一人の常連が歩いていた。
男が走れば止まる。
男が振り返れば店先を見る。
距離は縮めない。
やがて男は街道沿いの貸馬屋へ入った。
金を出す。
馬を借りる。
常連が困った顔をした。
「馬かよ」
自分の足を見る。
無理だった。
近くにいた別の男へ声をかける。
「馬、借りたい」
「一頭しかない」
「今出た奴?」
「ああ」
常連は考えた。
「荷車は?」
「あるけど」
「借りる」
「何で!?」
しばらくして。
街道を馬が走る。
その後ろを、荷車が追っていた。
御者台の常連が呟く。
「これ、追いつくか?」
追いつかなかった。
だが、行き先は読める。
男は王都へ戻っていた。
夕方。
《鴉樽》の入口が開いた。
ミナが顔を出す。
荷車。
ログ。
白衣。
常連。
そして見知らぬ女が二人。
その腕の中に、小さな子供。
ミナの顔から表情が消えた。
奥からヴィクが覗く。
「ログ?」
ログが振り返った。
女もヴィクを見る。
その瞬間。
子供を抱いていた女が息を呑んだ。
ログは気づいた。
「何?」
女はヴィクを見ている。
顔ではない。
服でもない。
首元。
そこに下げられている、小さなもの。
ヴィクが昔から持っているものだった。
女の唇が震えた。
「その子……」
ログの顔から笑いが消える。
主が奥から出てきた。
「中へ入れ」
女は動かない。
ヴィクを見たまま、小さく言った。
「どうして、その子がここにいるの」
今度は誰も笑わなかった。




