第9章 ⑥
《鴉樽》へ戻ると、いつもの卓にはすでに人が集まっていた。
主。
レオ。
古参。
それから常連が三人。
ログは入口で足を止めた。
「早くない?」
壁際から声がする。
「遅い」
見ると、そこにも一人いる。
「何でいるんだよ」
「いたから」
「答えになってない」
白衣がログの横を通り抜けた。
「飯あるか」
「お前はそればっかりだな!」
奥からミナが顔を出した。
「騒がないで」
「俺?」
「ログ」
「まだ何もしてない!」
ミナの後ろから、小さな顔が覗いた。
ヴィクだった。
眠そうな目でログを見る。
「おかえり」
「ああ。ただいま」
それだけだった。
ヴィクはミナの服を掴んだまま、また奥へ引っ込んだ。
ログは少しだけ黙った。
さっき聞いた言葉が残っている。
――多分、子供だ。
主が言った。
「座れ」
ログは卓へ向かった。
地図が広げられている。
例の倉庫。
今日見つけた地下施設。
そこから荷車が向かった道。
すでに常連から報告が入っていたらしい。
「荷車は?」
ログが聞く。
常連の一人が答えた。
「まだ追ってる」
「どこまで行った?」
「東へ抜けた。途中で一回止まったが、また動いた」
「女と子供は?」
「乗ったまま」
ログが主を見る。
「あれ、放っとくのは無理」
「誰が放っておくと言った」
即答だった。
ログが止まる。
「助ける?」
「ああ」
「じゃあ行く」
立ち上がる。
「待て」
「何だよ!」
「最後まで聞け」
ログが座った。
古参が感心した顔をする。
「座った」
「うるさい」
主は地図の地下施設を指した。
「子供は取る。こっちも追う」
「両方?」
「ああ」
レオが説明を引き継いだ。
「今、地下施設を潰したら、ここへ出入りしてる連中は全部消える」
ログは黙って聞く。
「でも、荷車をそのまま行かせる必要もない。女と子供の行き先が分かったら確保する」
「その後は?」
「運んでる奴を全員捕まえない」
ログが眉を寄せる。
「逃がすの?」
「一人はな」
「何で」
主が答えた。
「戻る先を見る」
ログが理解した。
「報告させる?」
「ああ」
古参が地図を覗き込む。
「子供を取られた。荷も取られた。そうなれば、現場の奴だけで処理できないかもしれん」
レオが頷いた。
「上へ報告する」
「その上を追う」
ログが言った。
主が煙草を灰皿へ押しつけた。
「そういうことだ」
白衣がパンを持って戻ってきた。
「決まったか」
ログが睨む。
「お前が飯探してる間にな」
「ならいい」
「よくない」
主は白衣を見る。
「お前も行け」
白衣の手が止まった。
「どこへ」
「子供の方だ」
「俺が?」
「女が研究施設にいたなら、お前が知ってるものがあるかもしれん」
白衣は少し考えた。
「顔は知らんぞ」
「物でも言葉でもいい」
「分かった」
ログが立つ。
「じゃあ行くぞ」
「まだだ」
また主に止められた。
「今度は何だよ」
「場所を聞け」
常連が笑った。
ログは黙って座り直した。
「……どこ」
地図の一点が指された。
荷車は東側の古い街道へ向かっている。
王都の外へ出る道だった。
ログの顔が変わる。
「外へ出す気か?」
「多分な」
「急ぐぞ」
今度は主も止めなかった。
ログと白衣。
常連が二人。
四人が《鴉樽》を出た。
残った卓で、レオが別の印を地図につける。
「地下施設の方は?」
常連が答えた。
「二人残してる」
「軍人は?」
「まだ中」
主が見る。
「出たら追え」
「ああ」
「施設には入るな」
「分かってる」
古参が聞いた。
「俺は?」
「ここにいろ」
「また?」
レオが答える。
「顔を知られてる可能性が一番高い」
「昔の話だぞ」
「その昔の話を調べてるんだ」
古参は不満そうだったが、座った。
主は地図を見たまま言う。
「軍人がどこへ戻るかで変わる」
レオも同じ場所を見ていた。
現在の線。
地下施設。
商館。
軍指定納入所。
そして司令官府。
過去の記録は、最高司令官のところまで来た。
現在も同じところへ伸びるのか。
まだ分からない。
だが、確かめる方法はある。
待てばいい。
半刻ほど経った。
入口が開いた。
常連が一人入ってくる。
「出た」
主が顔を上げる。
「軍人か」
「ああ」
「どこへ行った」
「まだ追ってる」
常連は水を一杯飲んだ。
「地下施設を出て、西へ向かった。途中で軍の馬車に乗った」
レオが聞く。
「印は?」
「王都防衛軍」
「本人は?」
「軍服。四十くらい。肩に銀線が二本」
古参が顔を上げる。
「佐官だな」
「偉い?」
「そこそこ」
「ログより?」
「比べるものじゃない」
壁際から笑いが起きた。
ログはいない。
主は地図を見る。
「馬車は」
「まだ追ってる」
「続けろ」
常連が頷いた。
また待つ。
今度は長かった。
夕方が近づく。
ミナが灯りを一つ置いた。
ヴィクが奥で何か話している。
小さな笑い声が聞こえた。
古参が地図を見ながら言う。
「外へ出る荷車と、軍へ戻る男」
レオが頷く。
「同時に動いた」
「偶然か?」
「まだ分からない」
「お前、本当にそればっかりだな」
「断定して外すよりいい」
主は何も言わない。
やがて、また入口が開いた。
今度の常連は息を切らしていた。
「馬車、着いた」
レオが立つ。
「どこだ」
男は卓まで来た。
地図へ手を伸ばす。
王都中央。
軍関係の施設が集まる区画。
その一角を指した。
「ここ」
古参の顔が変わった。
レオも場所を知っていた。
「司令官府か?」
「ああ」
地下施設にいた軍人。
その男を乗せた王都防衛軍の馬車。
着いた場所は、司令官府だった。
古参が低く言う。
「また繋がったな」
レオはすぐには答えなかった。
主が聞く。
「男は中へ?」
「入った」
「出てない?」
「まだ」
「見張りは」
「二人置いてきた」
主が頷く。
「そのまま見ろ」
常連は動かなかった。
「まだある」
主が目を上げる。
「何だ」
「商館」
レオが振り返った。
「動いた?」
「ああ。さっき、商館から一人出た」
「どこへ」
「そいつも司令官府の方へ向かってる」
卓の周りが静かになった。
一つなら偶然。
二つなら疑う。
三つになれば、さすがに無視はできない。
十九年前の研究所にいた将官。
今は最高司令官。
その生家の紋は、ヴィクの産着にあった。
現在、ログたちを見張っていた男が出入りする商館。
今日見つけた地下施設。
そこへ出入りする軍人。
別々に追った二本の線が、同じ場所へ向かっている。
レオが息を吐いた。
「最高司令官本人が関わっているとは、まだ言えない」
古参が笑った。
「まだ言うか」
「司令官府には何人いると思ってる」
「知らん」
「俺も正確には知らない」
「じゃあ偉そうに言うな」
主が二人を止めた。
「本人を見ればいい」
レオが主を見る。
「出てくると思うか?」
「出てこなければ待つ」
「どれくらい」
「動くまで」
常連が聞いた。
「酒は?」
「働いた分だけ出す」
「じゃあ待てる」
別の常連が入口から顔を出した。
「俺も行く」
「お前どこにいた?」
「裏」
「何してた」
「聞いてた」
レオが額を押さえた。
主はもう気にしていない。
「行け」
二人が出ていく。
古参がその背中を見送った。
「本当に何人いるんだ」
「数えるな」
主が言った。
古参は黙った。
その頃。
王都の外へ向かう古い街道を、荷車が走っていた。
少し離れて、その後ろを一台の荷車が追っている。
御者台には常連。
荷台にはログと白衣。
ログが前を見る。
「まだ?」
「もう少し」
「さっきも聞いた」
「近づきすぎるなって言われただろ」
「分かってる」
白衣が荷台で揺られながら言った。
「お前、今日はよく我慢するな」
ログが振り返る。
「子供がいるからだよ」
白衣は黙った。
前を行く荷車が街道を外れた。
細い脇道へ入る。
常連の顔が変わる。
「曲がった」
ログが立ち上がりかける。
「まだ」
「分かってる!」
「座れ」
「分かってるって!」
もう一人の常連が先へ走る。
木立の陰から様子を見る。
しばらくして戻ってきた。
「止まった」
ログが荷台から降りる。
「場所は?」
「古い農場」
「人は」
「御者入れて四人。女二人。子供一人」
「軍人は?」
「いない」
ログが白衣を見る。
白衣も降りた。
「行くか」
「ああ」
常連が二人を止める。
「一人は逃がす」
ログが答える。
「分かってる」
「本当に?」
「今日は分かってる!」
四人は脇道へ入った。
木々の向こうに、古い建物が見える。
荷車。
男たち。
そして、その横。
女が一人、布に包まれた小さなものを抱いていた。
もう一人の女が、そのすぐ側に立っている。
ログの足が止まった。
十九年前。
東側水路。
傷だらけの女。
腕の中の赤子。
一瞬だけ、重なった。
ログは息を吐く。
「二つやる」
白衣が見る。
「何を」
ログは前を見たまま答えた。
「助ける」
少し離れた男たちを見る。
「それから、追う」
常連が笑った。
「やっと分かったか」
ログが拳を握る。
「最初から分かってる」
誰も信じなかった。




