第9章 ③
灰色の上着の男は、市場を抜けてさらに西へ向かった。
常連は少し離れて後を追う。
途中で男が一度立ち止まった。
店先を見るふりをして、周囲を確認している。
常連はそのまま歩いた。
追い越す。
振り返らない。
角を曲がったところで、串の残りを食べながら待つ。
少しして、もう一人の常連が来た。
「止まった」
「見てた?」
「たぶん」
「気づいたか」
「分からん」
二人は顔を見合わせた。
最初の常連が言う。
「代われ」
「分かった」
役割を入れ替える。
灰色の上着の男が再び歩き始めた時、後ろにいたのは別の男だった。
最初の常連はそのまま路地へ消える。
灰色の上着の男は気づかない。
西へ。
さらに一本。
大通りから外れたところで、一軒の建物へ入った。
追っていた常連は入口を横目で見る。
看板が出ていた。
商館だった。
名前を覚える。
そのまま通り過ぎた。
角を曲がってしばらくすると、先に離れた常連が別の道から戻ってきた。
「入った?」
「ああ」
「どこ」
「商館」
「軍じゃないのか」
「軍だったら分かりやすすぎるだろ」
「それもそうか」
二人は少し離れた場所から建物を見た。
三階建て。
一階には荷の出入りができる大きな扉があり、横には人用の入口がある。
珍しい建物ではない。
商人が使うなら普通だった。
「どうする」
「見る」
「いつまで」
「何か出るまで」
「酒は?」
「後だ」
「珍しいな」
「勝ってから飲んだ方が旨い」
話は決まった。
二人は別れた。
一人は通り。
もう一人は裏へ回る。
灰色の上着の男は、しばらく出てこなかった。
代わりに荷車が一台来た。
木箱を下ろす。
商館の者が受け取る。
別の男が入る。
女が一人出てくる。
どれも普通だった。
それから半刻ほど経った頃。
灰色の上着の男が出てきた。
一人ではない。
五十代ほどの男と一緒だった。
服装は商人に見える。
二人は入口で少し話し、灰色の上着の男だけが立ち去った。
常連は動かない。
追わなかった。
今度は五十代の男を見る。
男は商館へ戻る。
しばらくして、また出てきた。
手に封筒を持っている。
「出た」
裏側にいた常連が、小さく言った。
通りにいた方も気づいている。
男は歩き出した。
二人のうち一人が後を追った。
もう一人は商館に残る。
今度の男は周囲を警戒する様子もなかった。
大通りへ出て、乗合馬車に乗る。
常連は走った。
「おい!」
近くにいた荷運びの男が振り返る。
「何だ」
「それ貸せ」
「何を」
「荷車」
「嫌だよ!」
「後で酒奢る」
「乗れ」
交渉は早かった。
荷車の端へ乗り、馬車を追う。
「もう少し早く」
「荷車だぞ!」
「見失う」
「知らねぇよ!」
「酒二杯」
「馬鹿言え、落ちる!」
それでも少しだけ速くなった。
馬車は中央区へ向かっていた。
軍の施設が集まる方向ではない。
役所街とも違う。
途中で五十代の男が降りた。
常連も荷車から飛び降りる。
「ありがとな!」
「酒忘れんなよ!」
「覚えてたらな!」
「おい!」
男を追う。
今度は近づきすぎない。
男は何度か道を曲がり、やがて大きな建物の前で止まった。
常連も止まる。
見覚えがあった。
軍の施設ではない。
だが、軍と無関係でもない。
軍人やその家族が使う物資を扱う、軍指定の納入所だった。
五十代の男は中へ入った。
封筒を持ったまま。
常連は建物を見上げる。
「……出たな」
そのまま近くの店へ入った。
窓際に座る。
「何か頼む?」
店主が聞いた。
「水」
「帰れ」
「じゃあ酒」
「昼だぞ」
「仕事中なんだよ」
「なおさら駄目だろ」
結局、茶を頼んだ。
窓から納入所を見る。
しばらくして、五十代の男が出てきた。
封筒は持っていない。
誰かに渡した。
常連は茶を一気に飲んだ。
「熱っ!」
「馬鹿か」
店主に笑われながら外へ出る。
男は商館へ戻る方向へ歩き始めていた。
もう追わない。
場所は分かった。
戻る。
その頃。
ログと白衣はまだ役所にいた。
机の上には、古い人事記録が広がっている。
「これ、同じ奴?」
ログが聞いた。
白衣が覗く。
「知らん」
「名前見れば思い出すんじゃなかったのかよ」
「施設責任者はな」
「将官は?」
「研究に関係ない」
「またそれかよ!」
レオがいない。
止める者もいない。
受付の役人が遠くからこちらを見ている。
ログは声を少し落とした。
「じゃあ顔なら?」
「見れば分かるかもしれん」
「十九年前だぞ」
「お前が聞いたんだろ」
「そうだけど」
記録には、当時王都に勤務していた将官の名前が並んでいた。
一人ではない。
当然だった。
ログは紙を睨む。
「多い」
「帰るか」
「帰らねぇよ」
「腹が減った」
「さっき食っただろ」
「頭を使うと減る」
「お前、研究以外でも頭使うの?」
白衣が睨んだ。
その時、入口から男が入ってきた。
常連だった。
ログが気づく。
「何でここに」
常連は答えず、近づいてくる。
白衣が言った。
「尾けてた奴は?」
ログが振り返る。
「お前、黙ってろって言っただろ!」
「もういいだろ」
「よくねぇよ!」
常連が二人を見る。
「釣れたぞ」
ログが止まった。
「どこ」
「商館」
常連は椅子を引いて座った。
「お前らを見てた奴が商館へ入った。そこで別の男と会った」
ログが身を乗り出す。
「そいつは?」
「封筒持って出た」
「どこへ行った」
常連が少し笑った。
「軍指定の納入所」
ログの顔から表情が消えた。
白衣も黙る。
「軍?」
「ああ」
「中まで見た?」
「入ってない」
「誰に渡したかは?」
「分からん。ただ、入る時には持ってた。出た時にはなかった」
ログが立ち上がった。
「戻る」
白衣も立つ。
「鴉樽か」
「ああ」
「やっと帰れる」
「お前も来い」
「何で」
「話聞いてただろ!」
「聞いた」
「じゃあ来い!」
「研究と関係ない」
「軍人見たのお前だろ!」
結局、白衣も連れて戻った。
《鴉樽》では主とレオが待っていた。
古参もいる。
ログが奥へ入るなり言った。
「釣れた」
主が顔を上げる。
「聞いた」
ログが止まった。
「もう?」
壁際に、商館を見張っていたもう一人の常連がいた。
「何で俺より早いんだよ」
「近道」
「どこ通った」
「教えない」
「何で」
「俺の道だから」
「道に所有権つけんな!」
主が机を叩いた。
「ログ」
「はい」
座る。
常連が確認したことを、もう一度全員で整理した。
ログと白衣を見張っていた男。
男が入った商館。
そこで会った五十代ほどの男。
その男が持ち出した封筒。
行き先は軍指定の納入所。
まだ軍人本人は出ていない。
命令書もない。
最高司令官へ直接繋がったわけでもない。
だが、ログたちを監視していた人間から始まった線が、軍と取引のある場所まで届いた。
レオが言った。
「偶然で片づけるには、少し出来すぎてるな」
「少し?」
ログが聞く。
「まだ少しだ」
「厳しいな」
「相手が最高司令官かもしれないんだ。これくらいで決めつける方が危ない」
主も頷いた。
「商館には触るな」
ログが見る。
「見張る?」
「ああ」
「納入所は?」
「そっちもだ」
常連が聞いた。
「何人使う」
主が少し考える。
「四人」
壁際から声がした。
「俺やる」
別の卓からも。
「俺も」
さらに奥。
「納入所なら俺がいい」
ログが周囲を見る。
「だから何人いるんだよ!」
誰も答えない。
古参が常連たちを見る。
「こいつら、何でこんなに働くんだ」
ログが答えようとした。
常連が先に言った。
「酒」
古参が黙った。
「酒?」
「ああ」
「一番働いた奴が奢ってもらえる」
白衣が聞く。
「誰に」
常連たちが主を見る。
主は無視した。
古参がしばらく考えた。
「俺も参加できるか」
ログが振り返る。
「お前まで!?」
「働いた後の酒は旨い」
「爺!」
「年寄りを働かせろ」
「さっきまで逆だっただろ!」
レオが笑いながら紙を取った。
「ちょうどいい。古参には別の仕事がある」
「何だ」
「十九年前の軍人事だ」
古参の顔から笑いが消えた。
レオはログたちが持ち帰った記録を広げる。
当時、王都に勤務していた将官たち。
その中から研究施設へ出入りできた人間を絞る。
古参なら、名前や役職に見覚えがある可能性がある。
白衣なら、顔を見れば思い出すかもしれない。
そして表では、商館と納入所を常連が見る。
主が言った。
「二本で行く」
ログが聞く。
「二本?」
「過去と今だ」
十九年前、研究所へ出入りしていた軍人。
今、ログたちの動きを探っている者。
別々に追う。
どこかで同じところへ着けばいい。
ログが椅子へ座り直した。
「今度は早そうだな」
主は答えなかった。
代わりに常連へ言う。
「商館から出た人間を全部見ろ。ただし止めるな」
「分かった」
「納入所も同じだ」
「おう」
「軍人が出ても追うだけだ」
ログが笑った。
「向こう、俺らを見てるつもりなんだよな」
レオも少し笑う。
「ああ」
「まだ研究所調べてると思ってる?」
「そう思ってくれてれば成功だ」
ログは机の上に広がった人事記録を見た。
囮はまだ続ける。
相手には、十九年前を掘っているところだけを見せる。
その裏で、今動いている人間を追う。
ようやく。
追いかける側と、追われる側が入れ替わった。




