第9章 ②
「ログ」
主に呼ばれた。
「何?」
「明日も調べろ」
ログが眉を寄せる。
「何を」
「研究所だ」
「それ、今日もやってたけど」
「だから続けろ」
ログは少し考えた。
「……それで?」
「それだけだ」
「待て」
主はもう次の紙を見ている。
ログが机を叩いた。
「絶対何かあるだろ」
「ある」
「言えよ!」
レオが横から紙を取った。
「お前を囮にする」
ログが止まった。
「誰を?」
「お前を」
「何で?」
「目立つから」
「喧嘩売ってる?」
「事実だ」
古参が頷いた。
「目立つな」
「お前まで乗るな」
白衣は残ったパンを食べながら聞いている。
ログが主を見る。
「で、俺は何すんの」
「研究所を調べろ」
「だから普通に?」
「普通に」
「囮なのに?」
「ああ」
ログは納得していない顔をした。
レオが説明する。
「俺たちは今日、倉庫からヨハンを辿って最高司令官まで着いた」
「うん」
「向こうがそれを知っているとは限らない」
ログの顔から少しずつ不満が消えた。
「俺たちがどこまで調べたか、分からない?」
「ああ」
主が続ける。
「なら、見せる情報はこちらで選べる」
机の上には、これまで集めた記録がある。
十九年前の研究所。
物資。
倉庫。
改修。
そして軍。
そのうち、表へ出すのは研究所だけ。
ログが白衣を見る。
「こいつ連れて?」
「連れていけ」
白衣が顔を上げた。
「俺も?」
「お前がいた方が分かりやすい」
「何が」
「十九年前を調べてるように見える」
「実際調べるんだろ」
「ああ」
白衣は少し考えた。
「ならいい」
ログが見る。
「いいのかよ」
「研究所の話ならな」
「お前、本当にそれしか興味ねぇな」
主がログを見る。
「役所へ行け。昔の施設記録でも、人事記録でもいい。白衣を連れて、聞けるだけ聞け」
「軍は?」
「聞くな」
「最高司令官も?」
「出すな」
ログが頷いた。
ようやく分かった。
自分たちはまだ、十九年前の研究所を追っている。
そう見せる。
嘘ではない。
本当に調べる。
ただし、すでに軍まで届いていることだけは隠す。
「で、誰か俺を見てたら?」
「見るな」
ログが止まる。
「何で」
「お前が探したら気づかれる」
「俺だって尾行くらい――」
「振り返るな」
「まだ何もしてねぇだろ!」
「先に言ってる」
古参が笑った。
ログが睨む。
「水路」
「明日は行かんぞ」
「誰も誘ってねぇよ」
主が常連を呼んだ。
さっき倉庫を見張っていた男だった。
「お前はログを見る」
常連が頷く。
「分かった」
ログが嫌そうな顔をする。
「俺、こいつに見張られるの?」
「違う」
主が答える。
「お前を見てる奴を見る」
常連が少し笑った。
「そっちか」
「何で嬉しそうなんだよ」
「仕事だからな」
「酒だろ」
常連は答えなかった。
答えない時点で正解だった。
主がもう一人呼ぶ。
「こいつの後ろにつけ」
二人目の常連が頷いた。
ログがますます嫌そうな顔になる。
「何で増えるの」
「一人目が尾行された時のためだ」
「誰が誰を見てんのか分かんなくなってきた」
レオが指で示す。
「お前」
次に白衣。
「白衣」
常連。
「こいつ」
もう一人。
「その後ろにこいつ」
ログが聞く。
「で?」
「お前たちを尾ける奴がいたら、こいつが見る」
「そのこいつを誰かが見てたら?」
「こっちが見る」
「そのこっちを――」
「もういい」
「俺もそう思った」
翌朝。
ログと白衣は《鴉樽》を出た。
レオはいない。
古参もいない。
主はもちろん来ない。
二人だけだった。
「どこへ行く」
白衣が聞く。
「旧施設記録を保管してるところ」
「どこだ」
「知らん」
白衣が止まった。
「知らんのか」
「だから聞きに行く」
「誰に」
「役所」
白衣が露骨に嫌な顔をした。
「帰る」
ログが襟を掴んだ。
「お前も行くんだよ」
「離せ」
「逃げんな」
「研究所を調べるだけだろ」
「お前の記憶も調べるんだよ」
「俺は資料じゃない」
「資料より面倒だよ!」
二人はそのまま行政区画へ向かった。
最初に入ったのは、旧施設の登録記録を保管している部署だった。
十九年前より前。
研究所が何という名義で登録され、誰が管理責任者になっていたのか。
ログが聞く。
白衣が横から訂正する。
「その名称じゃない」
「何が」
「研究区画の名称だ」
「お前、昨日知らないって言っただろ」
「今思い出した」
「今!?」
役人が二人を見る。
ログは気にしない。
白衣も気にしない。
古い記録が出てくるまで待ち、出てきた紙を二人で確認した。
施設名。
管理部署。
責任者。
白衣が名前を見る。
「こいつだ」
ログがすぐに覗く。
「施設責任者?」
「ああ」
「覚えてるの?」
「名前を見れば」
「昨日思い出せよ!」
「見てないものをどうやって思い出す」
「名前くらい覚えとけ!」
役人がまた二人を見る。
ログはやはり気にしなかった。
施設責任者の名を控える。
次は、その人物の異動記録。
別の部署へ向かう。
通りを歩く。
人混みを抜ける。
白衣が横を見る。
「さっきから同じ奴がいるぞ」
ログの足が止まりかけた。
「見るな」
「何で」
「いいから前見ろ」
「お前が聞いたんだろ」
「聞いてねぇよ!」
白衣は前を向いた。
少しして言う。
「灰色の上着」
「言わなくていい」
「茶色の髪」
「だから言うな」
「四十くらい」
ログが歯を食いしばった。
「お前、そういうのは覚えるんだな」
「今見たからな」
「十九年前のもそのくらい覚えとけよ……」
二人はそのまま歩いた。
振り返らない。
道を変えない。
急がない。
次の役所へ入る。
灰色の上着の男は入ってこなかった。
通りの向かい側で立ち止まった。
少し離れた場所。
露店の前に、一人の常連がいる。
果物を見ていた。
買う気はない。
さらに向こう。
荷車のそばにも男が一人いる。
そちらは常連を見ていた。
灰色の上着の男は気づかない。
役所の中では、ログがまた古い記録と格闘していた。
「何で同じ名前が三人いるんだよ」
「珍しくないだろ」
白衣が言う。
「お前は黙って探せ」
「俺は研究者だ」
「今日は人探しだ!」
「専門外だ」
「知るか!」
外では、灰色の上着の男が入口を見ている。
やがて男は動いた。
役所から離れる。
露店の前にいた常連も、少し遅れて歩き出した。
果物には最後まで触れなかった。
さらにその後ろを、もう一人が追う。
ログは知らない。
白衣は気づいていたが、もう言うなと言われたので黙っている。
灰色の上着の男は行政区画を抜けた。
大通りを渡る。
人の多い市場を通り、さらに西へ向かう。
常連は距離を空けたまま付いていく。
急がない。
近づかない。
見失わない。
男が一度振り返った。
常連は屋台へ寄った。
「串一本」
「銅貨二枚」
「高いな」
「じゃあ買うな」
「買う」
男が前を向く。
常連は串を受け取った。
食べながら歩く。
仕事中である。
酒だけが目的ではない。
たぶん。
灰色の上着の男が、一軒の建物へ入った。
常連は通り過ぎた。
角を曲がる。
そこで待っていたもう一人へ言う。
「入った」
「どこ」
常連が顎で示す。
二人目が建物を確認する。
看板はない。
軍施設でもない。
役所でもない。
ごく普通の商館だった。
「戻る?」
「いや」
常連は食べ終えた串を捨てた。
「出てくるまで見る」
「俺が残る」
「じゃあ俺は伝える」
役割はすぐに決まった。
その頃。
何も知らないログは、ようやく目当ての記録を見つけていた。
「白衣」
「何だ」
「これ」
十九年前より前。
研究所の施設責任者。
その異動歴の横に、一件だけ軍との合同業務が記載されていた。
ログが紙を指す。
「こっちも出た」
白衣が覗き込む。
「何が」
「軍」
白衣は少し考えた。
「じゃあ帰るか?」
「何でそうなるんだよ」
「見つけたんだろ」
「まだ調べる!」
ログは次の記録を要求した。
囮だからではない。
本当に知りたいからだ。
その頃にはもう、別の場所で。
ログを見ていた男の行き先も見つかっていた。




