第9章 ①
《鴉樽》へ戻った頃には、外は暗くなり始めていた。
扉を開けると、いつもの匂いと騒がしさが戻ってくる。ログはそのまま奥へ向かった。
「主いる?」
「いるぞ」
返事をしたのは常連だった。
ログが止まる。
「何でお前が先にいるんだよ」
「戻ってきたから」
「倉庫は?」
「交代した」
「誰と」
「別の奴」
ログが少し黙る。
「何人いるんだよ」
「知らん」
「お前らのことだろ!」
常連は酒を飲んだ。
「俺が全部把握してると思うな」
「じゃあ誰が把握してんだ」
「誰も」
ログが額を押さえた。
レオが横を通り過ぎる。
「放っておけ。今はそっちじゃない」
「そっちも気になるんだよ」
奥のいつもの場所に主がいた。
レオ、古参、白衣、最後にログと続いて入ってくるのを見て、主が言った。
「増えたな」
「今日それ二回目」
ログが椅子を引いた。
白衣は勝手に座ると、近くにあったパンへ手を伸ばした。
ログが見る。
「それ俺の」
「腹が減った」
「買えよ」
「お前に連れ回された」
「半分残せ」
交渉は成立したらしい。
レオが机の上へ紙を広げる。
主がそれを見た。
「何が出た」
レオは少しだけ間を置いた。
「軍だ」
主の手が止まった。
周囲では変わらず、笑い声や食器の音、酒を頼む声が飛び交っている。その中で、机を囲んだ者だけが黙った。
主がレオを見る。
「どこまで」
「まだ細い」
レオは順番に説明した。
十九年前、地下機構が壊れた年を境に、例の管理番号を使った人員と物資の動きが大幅に減っている。
翌年には、白衣が薬品を受け取った可能性のある倉庫の側面入口が閉鎖された。
倉庫の所有者は、その時点ですでに死亡していたダリオ・ベッカー。
改修届を出した管理代行人はヨハン・クルーガー。
ヨハン本人は倉庫もダリオも知らず、親戚から頼まれて書類を提出しただけだった。
その親戚から、さらに親族を辿った。
主が聞く。
「誰に着いた」
「王国軍最高司令官」
白衣がパンを食べる手を止めた。
古参は何も言わない。
主だけがレオを見ている。
「本人が依頼した証拠は」
「ない」
「命令書」
「ない」
「軍から物資が出た記録は」
「今のところない」
主が頷いた。
「なら、まだ軍がやったとは言えないな」
ログが腕を組む。
「遠いんだよ」
「何が」
「親戚が」
ログは指を折りながら説明しようとして、途中でやめた。
「とにかく遠い」
レオが代わる。
「ヨハンに改修届を渡した親戚、その親族の姉の夫が現在の最高司令官だ」
主も少し黙った。
「遠いな」
「だろ?」
ログがすぐに反応する。
「俺も言った!」
「だが、調べる価値はある」
ログの顔が戻った。
「だよな」
「ただし、本人には近づくな」
「何で」
「レオと同じこと言わせるな」
ログがレオを見る。
「言ったの?」
「言った。相手が関係していた場合、こっちがどこまで辿ったか教えるだけになる」
主が続ける。
「最高司令官なら、役所の壁を壊すのとは話が違う」
ログが顔をしかめた。
「まだ壊してねぇよ」
古参が言う。
「まだな」
「お前は黙ってろ」
主は白衣を見る。
「お前は何か覚えてないか」
「何を」
「軍だ。研究所に軍人が来たことは?」
「ある」
全員が白衣を見た。
ログが身を乗り出す。
「あるの!?」
「ある」
「何で今まで言わなかった!」
白衣が眉を寄せた。
「聞かれてない」
ログが立ち上がりかけた。
レオが腕を掴む。
「座れ」
「こいつ!」
「十九年前にも殴っただろ」
「足りねぇ!」
「研究に関係ない奴の所属なんて覚えてない」
白衣が言った。
「じゃあ何で軍人だって覚えてんだよ!」
「制服を着てたからだ」
ログが黙った。
それはさすがに分かりやすい。
主が聞く。
「何をしに来ていた」
「知らん」
ログの拳が動いた。
レオが先に押さえた。
「待て」
「まだ殴ってねぇ」
「だから止めてる」
白衣は本気で考え始めた。
「研究室には入ってない」
「どこで見た」
「通路」
「一度だけか?」
「何度か」
「同じ奴?」
白衣が首を傾げる。
「たぶん」
「顔は?」
「覚えてない」
ログが天井を見た。
主が聞く。
「階級は」
白衣が止まった。
「知らん」
「制服に何か付いてなかったか」
「付いてた」
ログが天井から視線を戻す。
「何」
「徽章」
「どんな?」
白衣は少し考えた。
「銀色」
古参が口を開く。
「形は」
「鳥みたいな」
レオの顔が変わった。
主も気づいた。
ログだけが二人を見る。
「何?」
レオが答えた。
「将官だ」
ログの表情が消えた。
「偉い?」
「偉い」
「どれくらい」
「少なくとも、普通の兵士が研究所へ物を届けに来たって話じゃない」
白衣が横から言う。
「物は持ってなかったぞ」
「そこじゃねぇ!」
ログが怒鳴った。
何人かの客が振り返り、離れた場所にいた常連が笑った。
「何笑ってんだ!」
「楽しそうだなと思って」
「どこがだよ!」
主が机を軽く叩いた。
「続けろ」
白衣がまた考える。
十九年前より前、研究所の通路で見た軍服の男。銀色の徽章を付け、研究室には入ってこなかった。自分に話しかけたこともない。
「誰といた?」
レオが聞いた。
白衣の眉が動いた。
「……責任者」
ログが止まる。
「お前が責任者だろ」
「研究のだ」
「じゃあ何の責任者」
「施設」
空気が変わった。
主が聞く。
「名前は」
「知らん」
ログが白衣を見る。
「お前、十九年間どうやって生きてきたんだ」
「普通に」
「普通じゃねぇよ!」
「研究に必要な奴の名前は覚えてる」
「そいつ施設の責任者だろ!」
「研究には必要なかった」
レオが額を押さえた。
「もうそこはいい」
主だけが白衣を見ていた。
「その施設責任者と、軍の将官が何度か会っていた」
「たぶんな」
「どこで」
「奥」
「奥?」
「研究区画の外だ」
白衣は指で机に簡単な位置関係を描いた。
研究室から通路を進んだ先に、白衣自身は用がないためほとんど行かなかった区画があったという。
「そこに何があった」
「管理室だったと思う」
「軍人はそこへ?」
「ああ」
主が黙った。
ここまで十九年前の記録を掘り、物資の動きが減った時期や倉庫の入口が塞がれた時期まで辿って、ようやく軍へ触れた。
そして今、十九年前より前にも、軍の将官が地下施設へ出入りしていたことが分かった。
同じ人物とは限らない。
現在の最高司令官だったとも限らない。
だが、軍との接点そのものは十九年前から存在していた。
ログが白衣を見る。
「もっと早く思い出せよ」
「聞け」
「何を聞けばいいか分からなかったんだよ!」
「なら俺も分からん」
「こいつ……」
レオがログの肩を押さえる。
「後にしろ」
「何を」
「殴るのを」
白衣が見る。
「後ならいいのか?」
「よくない」
主が机の紙をまとめた。
「まず、その頃の将官を洗う」
ログが聞く。
「どうやって」
「十九年前より前に王都勤務だった将官。その中で、地下施設へ出入りできる立場にいた者を絞る」
レオが頷く。
「軍そのものには照会しない方がいい」
「ああ。公開されている人事記録からやれ」
ログが二人を見る。
「また記録?」
レオが笑った。
「もう少しだ」
「それ、もっと早く聞きたかった」
古参が立ち上がる。
「明日か」
「いや」
主が言った。
「今夜からやる」
ログが主を見る。
「急ぐ?」
「軍まで出た」
主の目が変わった。
「ここから先は、向こうに気づかれる前に終わらせる」
それまで黙っていた常連たちが、少しずつこちらを見る。
主が一人を呼んだ。
「倉庫の見張りを増やせ」
「何人」
「気づかれない範囲で」
「分かった」
別の常連が立つ。
「俺は?」
「東側の出入りを見る」
「おう」
さらに一人。
「俺は?」
ログが周囲を見る。
「何人いたんだよ!?」
誰も答えなかった。
主だけが続ける。
「何か動いたら追え。止めるな。行き先を見ろ」
常連たちが散っていく。
酒のために、とは誰も言わなかった。
ログは知らない。
レオも知らない。
古参だけが、少し不思議そうに彼らを見ていた。
白衣が残ったパンへ手を伸ばす。
ログが先に取った。
「それ俺の」
「半分残すと言っただろ」
「気が変わった」
「返せ」
十九年前に切れたと思っていた糸は、細くなり、見えなくなっても残っていた。
その先に軍がいる。
今度は向こうが動く前に、こちらから辿る。




