第8章 ⑳
建物管理所を出る前に、レオはもう一度、十八年前の改修届を確認した。
所有者、ダリオ・ベッカー。
管理代行人、ヨハン・クルーガー。
住所も所属も書かれていないが、署名はある。
「まずこいつだな」
ログが言った。
「ああ。実在するか確認する」
「そこから?」
「そこからだ」
「名前書いてあるだろ」
「ダリオも名前は書いてあった」
ログが黙った。
古参が横で頷く。
「学習したな」
「うるせぇ」
白衣が聞く。
「俺は帰っていいか?」
「駄目」
「何でだ」
「まだ何か思い出すかもしれない」
「もう思い出しただろ」
「追加があるかもしれん」
「ない」
「ある」
「何でお前が決める」
「帰りたいからって記憶を消すな」
「消してない!」
結局、白衣も連れていくことになった。
ヨハン・クルーガーという名前を住民記録で照会すると、該当者はすぐに見つかった。
ログが少し驚く。
「いる」
レオが見る。
「何だと思ってたんだ」
「また死んでるか、いないか」
「今回は生きてる」
現在、五十代半ば。
王都南区在住。
職業は革製品を扱う商人。
軍歴なし。
役所勤めの記録もない。
建物管理を仕事にしていた形跡もなかった。
ログが記録を見る。
「倉庫と関係なくない?」
「今のところはな」
「十八年前は?」
「同じ。商人だ」
古参が眉を寄せた。
「何で管理代行人なんだ」
「本人に聞くのが早い」
ヨハンの店は南区の商店街にあった。
革鞄や財布、馬具の一部まで扱う、ごく普通の店だった。
ログが看板を見上げる。
「また普通」
レオが横を通る。
「入るぞ」
「もう突っ込まないのか」
古参が聞く。
「疲れた」
「成長じゃなかったな」
店の中では、男が客に商品を渡していた。
白髪が少し混じっている。
客が出てからレオが声をかけた。
「ヨハン・クルーガーさんですか?」
「そうですが」
レオが身分を示すと、ヨハンの表情が少し固くなった。
「何か?」
「十八年前の建物改修について確認したいことがあります」
「十八年前?」
「東部倉庫区にある倉庫です」
レオが控えてきた住所を伝える。
ヨハンはしばらく考えたが、首を振った。
「覚えてませんね」
「ダリオ・ベッカーという名前に心当たりは?」
「ありません」
答えは早かった。
ログが横から聞く。
「知らない?」
「ええ」
「お前、その人の倉庫の管理代行人になってるぞ」
ヨハンがログを見る。
「私が?」
「十八年前」
レオが改修届の内容を説明する。
東側出入口の閉鎖。
所有者、ダリオ・ベッカー。
管理代行人、ヨハン・クルーガー。
話を聞くうちに、ヨハンの顔が変わった。
「ああ」
ログが身を乗り出す。
「思い出した?」
「倉庫は覚えてませんが、手続きなら」
「誰に頼まれた?」
「親戚です」
ログとレオが同時に止まった。
「親戚?」
「ええ。書類を役所へ出してほしいと頼まれました」
「それだけ?」
「それだけです」
ヨハンは不思議そうに答えた。
必要な書類はすでに揃っていた。
ヨハンは内容を簡単に確認し、管理代行人として署名して建物管理所へ提出した。
工事に立ち会ってはいない。
倉庫の中にも入っていない。
所有者にも会っていなかった。
「ダリオ・ベッカーが誰なのかも?」
レオが確認する。
「知りません」
「所有者ですよ」
「そう書いてあったんでしょう」
「気にならなかった?」
ログが聞く。
ヨハンが逆に困った顔をした。
「親戚から頼まれた書類ですよ?」
ログが口を開く。
閉じる。
レオが小さく言った。
「普通はそんなものだ」
「言うと思った」
古参が聞く。
「その親戚は誰だ」
ヨハンが名前を答えた。
ログには知らない名前だった。
レオも反応しない。
「今も王都に?」
「いや、亡くなってます。十年くらい前だったかな」
「仕事は?」
「会計関係だったと思います」
「役所?」
「違いますよ。商会です」
また軍ではない。
役所でもない。
ログが少し肩を落とした。
「その人は、何で倉庫の書類を持ってたんだ?」
「さあ」
ヨハンは首を傾げる。
「俺も頼まれただけだと言ってましたから」
ログの顔が戻った。
「誰に?」
「そこまでは覚えてませんよ」
「思い出せ」
「十八年前ですよ?」
「白衣よりましだ」
「何で俺を見る」
白衣が言った。
「研究に関係ないことを十九年後に聞かれるよりはましだろ」
「お前は黙ってろ」
レオがヨハンへ聞いた。
「その親戚の家族について確認しても?」
「構いませんが……何を調べてるんです?」
「まだ分かりません」
ヨハンが怪訝な顔をした。
それ以上の説明はしなかった。
店を出てから、ログが息を吐く。
「親戚の親戚かよ」
「まだそうと決まったわけじゃない」
「でも、ヨハンじゃない」
「ああ」
管理代行人だったヨハンは、倉庫を管理していなかった。
所有者も知らない。
工事も見ていない。
親戚から渡された書類を提出しただけ。
名前だけが十八年前の記録に残った。
「また次か」
ログが言う。
「次だな」
古参が笑う。
「長いな」
「お前、楽しんでるだろ」
「少し」
親戚の記録を調べるため、再び役所へ戻った。
死亡記録。
家族記録。
婚姻記録。
ログは机の上へ置かれた書類を見て、何も言わなかった。
レオが見る。
「静かだな」
「慣れた」
「成長したな」
「殴るぞ」
まず、ヨハンへ改修届を渡した親戚。
その人物には姉妹がいた。
結婚して姓が変わっている。
その先にも親族がいる。
一つずつ確認していくうちに、レオの手が止まった。
「待て」
ログが顔を上げる。
「何?」
レオは婚姻記録を見ていた。
一度、前の頁へ戻る。
別の記録を開く。
もう一度名前を確認した。
「この姓……」
古参が覗き込む。
「知ってるのか」
「ああ」
レオの声が変わった。
ログも気づく。
「誰?」
「軍の最高司令官と同じだ」
ログの顔から表情が消えた。
白衣も書類を見る。
「本人か?」
「いや」
レオはすぐに否定した。
「別人だ」
「じゃあ関係ない?」
「待て」
家族記録をもう一度辿る。
ヨハン。
ヨハンへ書類を渡した親戚。
その親族。
さらに、その家の姉。
婚姻。
レオの指が止まった。
夫の名前がある。
ログが覗き込む。
「誰?」
レオは答えなかった。
別の名簿を出してもらう。
軍の高官名簿。
そこに同じ名前があった。
現職。
王国軍最高司令官。
ログが書類と名簿を交互に見る。
「……親戚なの?」
レオが関係を確認する。
「正確には、ヨハンに書類を頼んだ親戚の、その親族の姉の夫だ」
沈黙した。
古参が最初に言った。
「遠いな」
「遠い」
レオも認めた。
ログが指を折り始める。
「ヨハンの親戚の」
「親戚」
「その姉の」
「夫」
「遠すぎるだろ!」
役所の中で声が響いた。
何人かが振り返る。
レオが頭を下げた。
「静かにしろ」
「だって遠いだろ!」
「遠くても繋がってはいる」
「これ親戚って言うのか?」
「一応な」
古参が名簿を見る。
「偶然じゃないのか」
その言葉で、全員が黙った。
あり得る。
遠い。
あまりにも遠い。
同じ一族に軍人がいること自体、不自然ではない。
まして、ヨハン本人には軍歴すらない。
これだけなら何の証拠にもならない。
だが。
十九年前。
地下機構が壊れた。
その年を境に、長く続いていた人員と物資の動きが大幅に減った。
十八年前。
研究所へ繋がっていた可能性のある倉庫の入口が塞がれた。
所有者はすでに死んでいた。
その改修届を出した男は、親戚から頼まれただけだった。
そして遠く。
何人も挟んだ先に。
王国軍の最高司令官がいる。
ログが軍の名簿を見る。
「偶然?」
レオは答えなかった。
まだ決められない。
決めてはいけない。
古参も同じだった。
白衣が横から名簿を覗く。
「こいつに聞けばいいんじゃないか」
三人が白衣を見る。
「何だ」
ログが額を押さえた。
「お前は研究以外、本当に駄目だな」
「何でだ」
レオが名簿を閉じる。
「相手が本当に関係してるなら、今聞きに行った瞬間、俺たちがどこまで調べたか教えることになる」
白衣が少し考える。
「なるほど」
「今分かったのかよ」
ログが言った。
「研究なら最初から分かる」
「もうそれはいい」
レオは閉じた名簿に手を置いた。
軍。
初めて出てきた。
これまで追ってきた書類にも、帳簿にも、管理番号にも、その名前はなかった。
それでも。
死んだ男の倉庫から伸びた細い糸は、何人もの普通の人間を通り抜けた末に。
初めて軍へ触れた。




