第8章 ⑭
行政調整室は、中央管理局から少し離れた三階建ての建物に入っていた。
入口には役所の名前が並んでいる。
行政調整室は二階だった。
ログが建物を見上げる。
「ここか?」
「ここです」
「普通だな」
レオが見る。
「普通という言葉、嫌いになったんじゃなかったんですか」
「嫌いになった」
古参が横を通る。
「壁も普通だぞ」
ログが振り返る。
「お前、まだ言う?」
「確認しただけだ」
「何を」
「壁を」
「…………」
「連れてくぞ」
レオが先に中へ入った。
「置いていきますよ」
二人も続く。
二階へ上がる。
行政調整室には、いくつかの机が並んでいた。
書類を運ぶ者。
窓口で話す者。
棚から帳簿を出す者。
忙しそうではある。
だが、それだけだった。
レオが受付で身分を示す。
物資管理所へ出された人員提供依頼について確認したいと伝えた。
控えを見せる。
受付の役人が紙を見る。
「少々お待ちください」
ログがレオを見る。
レオは何も言わない。
古参も何も言わない。
「……何だよ」
「何も」
「まだ何も言ってねぇぞ」
「ええ」
「なら見るな」
しばらくして、別の役人が来た。
四十代くらいの男だった。
紙を受け取る。
日付を見る。
承認印を見る。
最後に管理番号を見た。
その手が止まった。
ほんの一瞬だった。
ログが気づく。
レオも気づいた。
古参は男の顔を見ている。
「この依頼について確認したいことがあります」
レオが言った。
男は紙を置いた。
「どのようなことでしょう」
「依頼元です」
男が黙る。
「この人員提供依頼を、行政調整室へ出した部署を確認したい」
「物資管理所への依頼はこちらから出しています」
「それは分かっています」
レオが管理番号を指した。
「その前です」
男の目が番号へ落ちた。
「この番号は、こちらの文書番号ではありませんね」
少し間があった。
「……そうですね」
ログが男を見る。
否定しなかった。
「では、どこの番号ですか」
レオが聞く。
男は答えない。
代わりに紙を持ち上げた。
「確認します」
棚へ向かう。
古参が小さく言った。
「知ってるな」
ログも小声で返す。
「ああ」
レオは何も言わなかった。
男は一冊の帳簿を持って戻ってきた。
机に置き頁をめくる。
日付を探す。
指が止まった。
「ありました」
レオが覗く。
「依頼元は」
男が帳簿を見る。
「記載されていません」
ログの眉が動く。
「ない?」
「はい」
「じゃあ誰が頼んだんだよ」
男がログを見る。
「こちらでは確認できません」
「確認できないのに人を出した?」
「人員提供の依頼を出したのはこちらです」
「だから、その仕事を誰が頼んだ」
「それは」
男が一度言葉を止めた。
「照会の対象ではありません」
古参の顔が変わった。
ログが気づく。
「爺」
古参は答えない。
レオが男に聞く。
「どういう意味です」
「この管理番号が付いた案件については、依頼元の照会を行わないことになっています」
「誰が決めたんですか」
「規定です」
「見せてください」
男が少し困った顔をした。
それでも席を離れた。
今度は薄い綴りを持ってくる。
古い紙だった。
何度か差し替えられている。
補修された跡もある。
男が一枚を開いた。
「これです」
レオが読む。
ログも横から見る。
読めるところだけ読む。
人員。
物資。
施設。
会計。
複数部署にまたがる臨時業務。
特定の管理番号が付された案件について。
詳細な目的の確認を要しない。
依頼元への照会を要しない。
必要な範囲のみ各部署へ通知する。
古参が低く言った。
「同じだ」
ログが見る。
「昔の?」
「ああ」
古参は紙から目を離さない。
「照会不要」
二十年以上前。
発行者のない文書について尋ねた時。
上司から言われた。
処理しろ。
照会は不要だ。
それ以上聞くな。
古参が男へ聞いた。
「これはいつからある」
男が規定を見る。
「分かりません」
「分からない?」
「現在の規定集へ移された時点で、すでに旧規定として存在しています」
レオが聞く。
「移されたのはいつです」
「十七年前です」
ログが古参を見る。
「お前が見た後だな」
「ああ」
「その前の規定は?」
男が首を振る。
「保管期限を過ぎています」
「残ってない?」
「少なくとも、ここには」
ログが息を吐いた。
レオは規定を見たまま聞く。
「この処理を、今も続けているんですね」
「規定が廃止されていませんから」
男は当然のように答えた。
「該当する依頼が来れば処理します」
「誰から来るか分からなくても?」
「管理番号が付いています」
「それだけで?」
「それだけではありません」
男が言った。
「指定された形式があります」
レオが顔を上げる。
「形式?」
「はい」
「今回も?」
「はい」
男は帳簿を開いた。
「受付記録があります」
そこには日付。
受領時刻。
管理番号。
必要な人員。
振り分け先。
受領者。
それだけが書かれていた。
依頼者の名前はない。
所属もない。
「持ってきた人間は?」
ログが聞いた。
「記録しません」
「何で」
「必要がないからです」
「顔は?」
男が少し考える。
「私は受け取っていません」
「誰が受け取った」
男が受付記録を見る。
名前を確認する。
部屋の奥を向いた。
「彼です」
若い役人が呼ばれた。
二十代半ばくらい。
突然呼ばれて戸惑っている。
レオが事情を説明する。
数日前。
早朝。
この依頼を持ってきた人物を覚えているか。
若い役人は考えた。
「顔は、あまり」
「男ですか」
「はい」
「年齢は」
「四十くらい……だと思います」
「服装は?」
「普通でした」
ログが嫌そうな顔をする。
また普通。
レオが続ける。
「何か覚えていることは」
若い役人が黙る。
考える。
「……靴」
古参が顔を上げた。
「靴?」
「歩くと音がしたので」
若い役人が床を見る。
「金具だと思います」
古参が一歩近づく。
「どこだ」
若い役人が驚く。
「え?」
「靴のどこに金具があった」
「そこまでは」
「見てないのか」
「ちらっと見ただけなので」
古参が自分の足を示す。
「踵か?」
「多分」
「内側か、外側か」
若い役人が少し考えた。
「外側だったと思います」
古参が黙った。
ログがその顔を見る。
レオも見ている。
「同じか」
ログが聞いた。
古参はすぐには答えなかった。
二十年以上前。
中央管理局。
裏口を通る男たち。
黒い革靴。
歩くたびに鳴る金属音。
外側の踵に付いた金具。
「同じだ」
古参が言った。
ログが若い役人へ聞く。
「その男、何か言った?」
「書類を」
若い役人が思い出す。
「お願いします、と」
「それだけ?」
「はい」
「また来たことは」
「俺は見てません」
「他の奴なら?」
「分かりません」
ログが受付記録を見る。
名前はない。
所属もない。
だが、ここへ来た。
書類を渡した。
行政調整室は受け取った。
物資管理所へ人を出すよう依頼した。
管理主任がエリックを選んだ。
エリックは倉庫へ行った。
そして仕事を終えた。
誰も、前を見ていない。
自分のところへ来た仕事を。
次へ渡しているだけだった。
レオが規定を見る。
「この番号の依頼は、他にもありますか」
男が答える。
「あります」
ログが顔を上げた。
「今も?」
「はい」
「どれくらい」
「確認しないと分かりません」
レオがすぐに言う。
「確認してください」
男が頷いた。
ログが横から聞く。
「全部」
レオが見る。
「全部です」
男は少し困った顔をした。
「時間がかかります」
ログが口を開く。
レオが先に言った。
「待ちます」
ログがレオを見る。
「俺まだ何も言ってねぇぞ」
「念のためです」
古参が横で笑う。
ログが睨む。
「水路」
「今は仕事中だ」
男が帳簿を集め始める。
ログはそれを見る。
昔の仕組みが残っている。
規定も。
番号も。
そして。
その番号を持ってくる人間も。
古参が小さく言った。
「まだいる」
ログが見る。
「何が」
古参は受付の方を見ていた。
「俺がいた頃と同じだ」
二十年以上前に見たものが。
形を変えず。
今も役所の中を通っている。




