第8章 ⑫
物資管理所の向かいで待ち始めてから、鐘が二度鳴った。
エリック・ハーゼは出てこない。
窓際を何度か通った。
書類を運ぶ。
同僚と話す。
棚から帳面を出す。
朝、死んだ男名義の倉庫にいたとは思えない。
完全に仕事中だった。
「なあ」
ログが言った。
「はい」
「いつまで見る」
「動くまで」
「昼まで?」
「必要なら」
「夕方まで?」
「必要なら」
ログが空を見る。
「倉庫に戻った方が早くねぇか?」
「何がです」
「扉開けて、中の二人に聞く」
「何を」
「全部」
「駄目です」
「じゃあエリックに聞く」
「駄目です」
「じゃあ何ならいいんだよ」
「待つ」
ログが黙った。
古参が少し離れたところで笑った。
「水路」
「笑ってない」
しばらくして、常連が戻ってきた。
手にパンを持っている。
「食うか」
「食う」
ログが受け取る。
レオにも渡す。
古参が手を出した。
常連が見る。
「お前も食うの?」
「駄目か」
「別に」
パンが渡される。
古参が食べ始めた。
ログがそれを見る。
「普通に馴染んでるな」
「腹は減る」
「昨日まで水路に投げられそうだった奴が」
「今日もだろ」
「分かってんじゃねぇか」
レオはパンを食べながら物資管理所を見ていた。
「エリックが今朝、いつもより早く家を出たことは分かっています」
常連が頷く。
「近所の奴が言ってた」
「時々あるのか」
「あるらしいぞ」
ログがパンを噛むのを止めた。
「時々?」
「月に何度か。多い月もあれば、全然ない月もある」
レオが常連を見る。
「帰りが遅い日は」
「それもある」
「仕事だと言っている?」
「ああ」
常連は残ったパンを口へ入れた。
「時間外の仕事があるって」
ログとレオが顔を見合わせた。
古参が食べる手を止める。
「時間外」
レオが繰り返した。
「妻は何か言っていたか」
「別に」
「怪しんでない?」
「手当が出るらしい」
ログが眉を寄せた。
「手当?」
「働いた分、給料が増えるやつ」
「それくらい知ってる」
「知らなそうだったから」
「知ってるわ」
レオが立ち上がった。
「行きます」
ログも立つ。
「どこへ」
「会計記録を確認します」
ログが止まった。
「また帳簿?」
「また帳簿です」
「俺は?」
「待っていてください」
「また?」
「またです」
ログがレオの腕を掴んだ。
「俺も行く」
「何をするんです」
「見る」
「何を」
「帳簿」
レオがログを見る。
「読めます?」
「読めるわ!」
古参が横から言った。
「途中で寝るなよ」
「寝ねぇよ!」
結局、ログも行った。
古参も連れていく。
一人にする理由がない。
常連には物資管理所の見張りを頼んだ。
向かったのは、物資管理所と同じ区画にある会計出張所だった。
王都内の小さな役所の給与や手当、物資購入の支払いを処理している。
中へ入る。
窓口が並んでいた。
人が並んでいた。
ログが止まる。
「混んでるな」
「朝ですから」
「どれくらい待つ」
「分かりません」
ログの顔が曇った。
番号札を取る。
待つ。
一人進む。
また一人。
老人が窓口で何か揉めている。
商人が書類を足りないと言われて帰っていく。
ログが椅子に座る。
足を組む。
戻す。
立つ。
「座っててください」
「暇なんだよ」
「さっきも聞きました」
「見張りより暇だぞ」
「同じです」
ようやく呼ばれた。
レオが窓口へ行く。
ログと古参も付いていく。
窓口の役人が三人を見る。
「ご用件は」
レオが身分証を出した。
「物資管理所職員の時間外勤務について確認したい」
「どなたですか」
「エリック・ハーゼ」
役人が帳面を出す。
名前を探す。
「ああ、ありますね」
ログが身を乗り出した。
レオが腕で押し戻す。
「いつから」
「少々お待ちください」
別の帳面が出る。
さらに紙束。
役人が指で追う。
「……古いものまではこちらにありませんが、今年は七回」
「去年は」
「こちらでは分かりません」
ログが口を開く。
レオが先に聞いた。
「どこなら分かりますか」
「前年分は保管庫です」
「確認できますか」
「申請が必要です」
ログが天井を見る。
レオは平然としていた。
「今年の七回について、勤務内容は」
役人が紙を見る。
「臨時確認業務」
「確認対象は」
「記載されていません」
「場所は」
「記載されていません」
「命令者は」
「こちらにはありません」
ログが横から言った。
「何も書いてねぇじゃねぇか」
役人がログを見る。
「支払いに必要な項目は記載されています」
「これで?」
「勤務日、勤務時間、職員番号、承認番号がありますので」
「誰が承認した」
「承認番号から照会してください」
「だからそれを聞いてる」
「承認元の確認は担当外です」
ログが止まった。
古参が僅かに横を向く。
「笑うな」
「笑ってない」
レオが聞く。
「どこへ照会すれば」
「給与承認窓口です」
「ここじゃないのか?」
ログが聞いた。
役人が答える。
「こちらは支払処理です」
「同じ会計だろ」
「担当が違います」
ログがレオを見る。
「同じ建物?」
「多分」
「ならまだいい」
役人が言った。
「給与承認窓口は別棟です」
ログが黙った。
古参が下を向いた。
「お前、絶対笑ってるだろ」
「笑ってない」
外へ出る。
別棟へ向かう。
通りを一本渡る。
小さな建物があった。
また並ぶ。
ログの顔から表情が消えていく。
「これが役所です」
レオが言った。
「知りたくなかった」
順番が来る。
今度はレオだけが話した。
承認番号を見せる。
役人が調べる。
しばらくして一枚の記録が出てきた。
「物資管理所からの申請ですね」
レオが聞く。
「申請者は」
「管理主任」
「エリックの上司?」
「そうなります」
ログが身を乗り出す。
「そいつが倉庫へ行けって命令したのか」
役人が困った顔をした。
「そこまでは分かりません」
「何で」
「こちらでは時間外勤務の申請を承認しているだけです」
「申請理由は」
「臨時確認業務」
「何を確認する」
「記載されていません」
「場所」
「記載されていません」
「誰から頼まれた仕事か」
「それは物資管理所へ聞いてください」
ログが目を閉じた。
「戻るの?」
レオが言った。
「戻ります」
「今来たよな?」
「来ました」
「そこからこっちに回されたよな?」
「回されました」
「で、また戻る?」
「戻ります」
ログはしばらく何も言わなかった。
古参が肩を震わせた。
「水路」
「まだ何も言ってない」
「笑った」
「咳だ」
「絶対違う」
外へ出る。
ログが大きく息を吐いた。
「なあ、レオ」
「何です」
「役所って全部こうなのか」
「全部ではありません」
「じゃあここだけ?」
「似たようなものです」
「最悪だな」
「世の中とはそういうものです」
「嫌な世の中だな」
物資管理所へ戻る途中。
レオが足を止めた。
ログも止まる。
「どうした」
レオは手元の控えを見ていた。
「おかしい」
「何が」
「時間外勤務そのものは正式に処理されている」
「それは分かった」
「エリックは、隠れて倉庫へ行ったわけじゃない」
ログが黙る。
「勤務として申請されて」
「承認されて」
「手当まで支払われている」
古参が言った。
「本人は仕事だと思っている」
「ああ」
レオが頷いた。
「おそらく」
ログが物資管理所を見る。
「じゃあ、あいつ何も知らねぇのか」
「分かりません」
「またそれか」
「ただ」
レオは続けた。
「少なくとも、自分が秘密の仕事をしているとは思っていない可能性がある」
古参が低く言った。
「昔もそうだった」
二人が見る。
「物を運んでいた役人に、一度聞いたことがある」
「何て」
「何を運んでいるのか」
「そいつは?」
古参は少し間を置いた。
「知らないと言った」
「嘘じゃなく?」
「当時は、面倒だから答えないだけだと思った」
古参が物資管理所を見る。
「今なら分からん」
普通の役人。
普通の勤務。
普通の時間外手当。
その中へ普通ではない仕事を混ぜる。
やる者には全体を教えない。
必要なことだけ伝える。
終われば元の仕事へ戻す。
秘密を守れと言う必要さえない。
本人が秘密だと知らなければいい。
ログが頭を掻いた。
「じゃあエリック捕まえても」
「大したことは聞けないかもしれません」
「管理主任は」
「調べます」
「そいつも知らなかったら?」
「その上を調べます」
「そいつも?」
「さらに上を」
ログが嫌そうな顔をした。
「終わる?」
「終わらせます」
その時だった。
物資管理所の扉が開いた。
エリックが出てきた。
手には書類の束を持っている。
朝と同じで急いでいない。
周囲も見ない。
普通に歩き始める。
ログが動く。
レオも続く。
「今度は何だ」
「見れば分かります」
「また尾行?」
「またです」
古参が後ろから付いてくる。
ログが振り返った。
「お前、楽しんでない?」
「少し」
「水路」
「今は仕事中だ」
「何の仕事だよ」
「お前を見てる」
「ぶん殴るぞ」
エリックは何も知らずに歩いている。
自分が追われていることも。
朝の仕事が疑われていることも。
二十三年前に死んだ男の倉庫へ入ったことが、誰かに見られていたことも。
ただ頼まれた仕事をしてその分の手当を受け取っている。
それだけなのかもしれない。
だからこそ誰がその仕事を頼んだのか。
そこを辿るしかなかった。




