第8章 ⑨
ログが扉を開ける。
「お前も来い」
「信用しないんだろ」
「ああ」
ログは古参を見る。
「だから目の前に置く」
外へ出る。
常連が一人、橋の陰から手を上げた。
声は出さない。
水路の向こうにいた者も動かない。
石壁の前に人影がいる。
外套を深く被っていた。
男か女かも分からない。
人影は周囲を見た。
一度。
二度。
そして石壁へ手を伸ばす。
迷いがない。
隙間へ指を入れた。
筒を引き抜く。
ログが動こうとする。
レオが腕を掴んだ。
「待て」
「取ったぞ」
「だからだ」
レオは人影を見る。
「どこへ持っていくか見る」
ログは舌打ちした。
だが、動かなかった。
人影は筒を外套の内側へ入れる。
そのまま水路沿いを歩き始めた。
ログ達も動く。
距離を取る。
先頭は常連だった。
地下街で人を尾けるなら、役人より常連の方が慣れている。
橋の下。
荷揚げ場。
閉まった店の軒先。
人影が曲がるたび、別の常連が先へ回る。
ログはその後ろを歩いた。
古参は隣だ。
「知ってる奴か」
「顔が見えん」
「歩き方は」
「分からん」
「役に立たねぇな」
「二十年以上前の人間を歩き方で判別できると思うか」
「できねぇなら黙って歩け」
古参が口を閉じる。
主と白衣は少し後ろにいた。
白衣が小声で言う。
「捕まえないのか」
主は煙草を咥えたまま答える。
「今捕まえて何を聞く」
「誰に頼まれたか」
「答えると思うか」
「……思わない」
「なら歩かせろ」
人影は東へ向かっていた。
《鴉樽》から離れていく。
地下街の中心にも向かわない。
水路沿いを進み、古い荷揚げ場を抜ける。
その先には地上へ続く階段があった。
ログが眉を寄せる。
「上か」
人影が階段を上がる。
常連が振り返った。
ログは頷く。
追う。
階段を上がると、夜明け前の冷たい空気が流れ込んできた。
地下街とは匂いが違う。
石畳が薄く濡れている。
通りには誰もいない。
店の戸は閉まり、家々の窓も暗い。
人影は振り返らずに歩いていく。
「役所へ行く道じゃない」
レオが言った。
「分かるのか」
「中央管理局なら反対です」
「じゃあどこだ」
「この先は倉庫街です」
ログが前を見る。
王都東側の倉庫街。
商会の倉庫。
荷馬車の待機所。
小さな工房。
昼間なら人が多い。
だが、今は静まり返っていた。
人影が角を曲がる。
先を歩いていた常連が止まった。
壁へ背をつける。
ログ達も止まる。
常連が指を二本立てた。
二人。
誰かいる。
ログが壁際まで進む。
僅かに顔を出す。
細い路地。
奥に人影が二つあった。
筒を回収した者。
もう一人。
新しく現れた男は外套を着ていない。
暗くて顔までは見えない。
筒を回収した者が、懐からそれを出した。
男へ渡す。
男は受け取る。
蓋を開けた。
中から紙を取り出す。
その場で読む。
ログが目を細める。
「何が書いてある」
「見えるわけないだろ」
古参が小声で返した。
「お前に聞いてねぇ」
「俺しか隣にいない」
「うるせぇ」
男は紙を読み終える。
折り直す。
筒へは戻さなかった。
懐へ入れる。
代わりに回収した者へ何かを渡した。
小さな袋だった。
回収した者は受け取り、来た道を戻り始める。
ログが動こうとする。
主が肩を掴んだ。
「そっちは捨てろ」
「でも」
「紙を持ってるのはどっちだ」
ログが止まる。
男だった。
回収役ではない。
受け取った男。
「追うぞ」
男も歩き始める。
路地の奥へ。
ログ達は再び距離を取った。
回収役とは逆方向だった。
しばらく歩く。
倉庫が並ぶ。
どれも似たような石造りだ。
看板のない建物も多い。
男は慣れた様子で進んでいく。
迷いがない。
やがて一つの倉庫の前で止まった。
扉を叩く。
三回。
少し間を置いて。
二回。
内側から扉が開いた。
男が入る。
扉が閉まる。
ログ達は離れた物陰から見ていた。
「倉庫?」
ログが聞く。
レオが目を凝らす。
「商会の印がない」
「個人のか」
「それなら所有者を調べられます」
古参が何も言わない。
ログが見る。
「どうした」
古参は倉庫ではなく、閉じた扉を見ていた。
「今の男」
「知ってるのか」
「顔は見えなかった」
「またそれか」
「違う」
古参が一歩前へ出る。
主が腕を掴んだ。
「動くな」
古参は止まる。
視線だけを倉庫へ向ける。
「歩いていた時」
「何だ」
「音がした」
ログが眉を寄せる。
「音?」
古参は自分の足元を見る。
石畳を靴底で軽く擦った。
「昔、文書を持ってきた連中も、あの音を立てていた」
ログの顔が変わる。
「靴か」
「ああ」
男が歩くたび。
硬い音がしていた。
石畳を踏むたびに、僅かに金属が当たる音。
「踵の外側」
古参が言った。
「金具が付いている」
レオが倉庫を見る。
「同じ靴?」
「同じものかは分からん」
「でも、役人は履かない」
「ああ」
白衣が口を開く。
「二十年以上前から?」
誰も答えなかった。
もし同じものなら。
組織は残っている。
人が入れ替わっても。
長官が変わっても。
部署が消えても。
今も同じやり方で動いている。
ログが倉庫へ向かおうとする。
レオが止めた。
「待て」
「まだ待つのか」
「場所は分かった」
「紙も中だ」
「だから今入るな」
ログが睨む。
「逃げられたらどうする」
「見張ればいい」
常連が言った。
いつの間にか横に来ていた。
「朝までなら交代できる」
別の常連も頷く。
「裏口も探す」
「屋根から出たら?」
「屋根も見る」
ログが常連達を見る。
「お前ら何人いるんだ」
「知らん」
「増えた」
「何でだよ」
「面白そうだから」
ログが額を押さえた。
主が煙草の煙を吐く。
「使え」
「こいつらを?」
「他にいるか」
いない。
役人を呼べば、どこから情報が漏れるか分からない。
中央管理局の中にも関係者がいる可能性がある。
警邏へ話を持ち込むにも、まだ証拠が足りない。
なら。
今は地下街の目を使うしかない。
「分かった」
ログが常連を見る。
「出入りした奴を全部覚えろ」
「顔」
「服」
「持ち物」
「どっちへ行ったか」
「靴もだ」
古参が付け加えた。
常連が古参を見る。
「お前が言うな」
「……そうだな」
古参が黙る。
レオは倉庫の位置を確認していた。
通り。
隣の建物。
裏手へ抜ける道。
「俺は朝になったら所有者を調べる」
「役所で?」
「ああ」
「大丈夫なのか」
「倉庫の所有者を調べるだけなら、中央管理局へ行く必要はない」
ログが倉庫を見る。
「俺は?」
「一度戻ってください」
「何でだよ」
「昨夜から動きっぱなしでしょう」
「お前もだろ」
「俺は役人です」
「だから何だ」
「朝から働くのには慣れています」
「俺だって働いてる」
「樽を運ぶのと登記を調べるのは違います」
「喧嘩売ってんのか」
「今は買いません」
主が二人の間を通る。
「俺は戻る」
ログが振り返った。
「先に?」
「ああ」
「倉庫は?」
「見張りがいる」
主は常連達を見る。
「何かあったら《鴉樽》へ走れ」
「分かった」
「裏も見とく」
「任せろ」
主はそれだけ確認すると歩き出した。
白衣が聞く。
「俺は?」
「好きにしろ」
「一番困る答えだな」
ログが倉庫を見る。
まだ動きたくなかった。
だが、今ここで踏み込めば、ようやく見つけた先を自分達で潰す可能性がある。
「……戻るか」
レオが頷く。
「朝になったら、俺はそのまま役所へ行きます」
「俺も行く」
「来るんですか」
「何だよ」
「書類を見ると眠くなるでしょう」
「ならねぇよ」
「昨日寝てました」
「あれは文字が多かったからだ」
「今日も多いです」
「うるせぇ」
古参が二人の後ろを歩き始める。
ログが振り返る。
「どこ行く」
古参が止まった。
「戻るんだろ」
「俺の前歩け」
「逃げん」
「信用してねぇって言っただろ」
古参は何も言わず、ログの前へ出た。
地下街へ戻る。
東の空が白み始めていた。
《鴉樽》へ着く頃には、通路にも朝の気配が戻り始めていた。
主が扉を開ける。
中は静かだった。
カウンターの奥に灯りが残っている。
椅子にミナが座っていた。
腕の中にはヴィク。
「遅い」
主を見るなり、ミナが言った。
「悪かった」
「ずっと起きてた」
主がヴィクを見る。
「お前が?」
「私も」
「寝ろ」
「誰のせい」
主は答えなかった。
ヴィクが動く。
主を見つけた。
しばらく見ている。
それから両手を伸ばした。
主が煙草を灰皿へ押しつける。
ミナの前へ行く。
「寄越せ」
「はい」
ヴィクを受け取る。
腕の中へ収まると、ヴィクは主の服を掴んだ。
「何だ」
返事はない。
小さな手だけが離れない。
ミナが立ち上がる。
「何か分かった?」
「少しな」
「危ない?」
主はすぐには答えなかった。
「まだ分からん」
ミナが主を見る。
「それ、危ない時に言うやつ」
「寝ろ」
「誤魔化した」
「寝ろ」
ミナは不満そうな顔をしたが、奥へ向かった。
途中で振り返る。
「ヴィクも寝かせて」
「ああ」
「ちゃんと」
「ああ」
「椅子で一緒に寝ないでよ」
主が黙る。
「またやる気でしょ」
「寝ろ」
ミナが奥へ消えた。
主はヴィクを抱いたまま椅子へ座る。
ヴィクはまだ服を掴んでいる。
外では。
ログ達が戻ってきた。
扉が開く。
ログが入ってくる。
主を見る。
ヴィクを見る。
「起きてたのか」
「らしい」
ログが近づく。
ヴィクが顔を向ける。
「よ」
手を伸ばす。
ヴィクの顔が歪んだ。
ログが止まる。
「まだ駄目なのかよ」
主がヴィクを少し抱き直す。
「嫌われてるな」
「うるせぇ」
レオも入ってくる。
その後ろに古参。
主の顔から僅かに緩んでいたものが消えた。
「朝から動くんだろ」
レオが頷く。
「所有者を調べます」
「ログ」
「分かってる」
ログは古参を見る。
「こいつも連れてく」
古参は何も言わない。
「白衣は」
「一度寝かせる」
「そうしろ」
主はそれだけ言った。
ログが椅子へ座ろうとする。
レオが止める。
「行きますよ」
「今帰ってきたばっかだぞ」
「朝です」
「飯くらい食わせろ」
「食べたら行きます」
「なら先に言え」
ログが奥へ向かう。
「何かあるか?」
ミナの声が飛んできた。
「自分で探して!」
「起きてんじゃねぇか!」
「寝るところ!」
いつもの声が《鴉樽》に戻る。
主は椅子に座ったまま、ヴィクを見る。
小さな手はまだ服を掴んでいた。
外では夜が明けていく。
倉庫には見張りを残した。
役所が開けば、レオが所有者を調べる。
二十年以上前と同じ靴。
十二年前に死んだ役人。
存在しない部署。
そして。
行き先の残っていない人間達。
追う場所は見つかった。
主はヴィクの背を軽く叩く。
ここから先。
自分は《鴉樽》に残る。
外を追う者がいるなら。
帰ってくる場所を守る者も必要だった。




