第8章 ⑧
「俺も昔、同じ番号の文書を処理していた」
水路の音が響いている。
ログの手は、古参の胸倉を掴んだままだった。
「もう一度言え」
古参は答えない。
「聞こえなかったのか」
「聞こえた」
「なら離せ」
「嫌だ」
ログの手に力が入る。
レオが周囲を見た。
水路沿いに人影はない。
だが、筒を取りに来る者がいつ現れるか分からない。
「ここで話すな」
「こいつが先だ」
「見張りは残す。場所を移すぞ」
近くに使われていない荷揚げ小屋があった。
扉は傾き、壁の一部が剥がれている。
常連の一人が中を確認する。
誰もいない。
ログは古参の胸倉を掴んだまま、小屋へ連れていった。
「歩け」
「自分で歩ける」
「逃げるかもしれねぇだろ」
「逃げん」
「信用できると思うか」
古参は黙った。
小屋の中には、壊れた机と椅子が残っていた。
窓から水路が見える。
石壁に隠された筒も、ぎりぎり視界に入っていた。
常連達は外へ散る。
一人は橋の上。
一人は水路の向かい。
別の者が《鴉樽》へ走った。
しばらくして。
主と白衣が来た。
主は小屋へ入り、古参を見る。
「何をした」
ログが答える。
「こいつも処理してた」
主は煙草を咥える。
「何を」
「あの番号の文書だよ」
白衣の顔が動いた。
古参は椅子に座っている。
ログはその前に立った。
主が壁にもたれる。
「話せ」
古参が顔を上げる。
「どこから」
「最初からだ」
「長くなる」
「夜はまだ明けねぇ」
ログの声は低かった。
「全部話せ」
古参は膝の上で手を組んだ。
すぐには口を開かなかった。
何を話すか迷っているようにも。
どこまで話せば済むのか考えているようにも見えた。
ログが机を蹴る。
古い木が大きな音を立てた。
「選ぶな」
古参がログを見る。
「知ってることを勝手に選ぶな」
「関係あるかどうかは俺達が決める」
レオが言った。
「覚えていることを全部話してください」
古参は目を閉じた。
そして。
二十年以上前の話を始めた。
当時。
古参は中央管理局の第二管理課にいた。
今より部署が少なく、管理局そのものも小さかった。
仕事は他部署から回ってくる申請の確認。
人員の異動。
施設へ送る物資の手配。
どれも珍しいものではなかった。
最初にその番号を見たのは、中央管理局へ入って二年目。
長官室から一枚の文書が回ってきた。
発出元は空欄。
部署番号もない。
書かれていたのは。
人員三名の所属変更。
新しい所属先は記されていなかった。
「お前が処理したのか」
ログが聞く。
「ああ」
「何で止めなかった」
「長官室から回ってきた」
「それが何だ」
「照会不要の印があった」
ログが古参を見る。
「だから?」
古参は答えに詰まった。
「命令だった」
「命令なら何でもやるのか」
「当時は、そういうものだと思っていた」
「思ってた?」
ログの声が低くなる。
「違うだろ」
古参が見る。
「何がだ」
「変だと思ったんだろ」
沈黙。
「発出元がねぇ」
「行き先もねぇ」
「人間を三人、どこかへ送れって書いてある」
「何も思わなかったのか」
古参は答えなかった。
ログが一歩近づく。
「思ったんだな」
「ああ」
「何で聞かなかった」
「聞いた」
全員が古参を見る。
書類を持ってきた長官室の男へ、一度だけ尋ねたという。
発出元はどこか。
異動した人間は、どの部署へ所属するのか。
返ってきた答えは短かった。
国家保安に関わる特別措置。
知る必要はない。
指示どおり処理しろ。
「それで黙った」
古参が言った。
ログの顔が険しくなる。
「納得したのか」
「しなかった」
「なら何で」
「長官室の命令だった」
また同じ答えだった。
古参自身も分かっていた。
それが答えになっていないことを。
「逆らえば職を失うと思った」
ようやく別の言葉が出た。
「家族もいた」
「生活もあった」
「俺一人が止めたところで、別の誰かが処理する」
「そう考えた」
ログは何も言わない。
古参は続けた。
その後も文書は来た。
毎月ではない。
続く時もあれば、半年以上来ない時もあった。
人員。
食料。
薬。
衣類。
施設の補修材。
時には武具。
発出元はいつも空欄だった。
番号の頭も同じ。
受領したのは、今夜現れた男。
長官室付の記録官として登録されていた。
だが。
「長官室に机はなかった」
レオが眉を寄せる。
「籍だけ?」
「分からん」
「給与記録は」
「俺が見た範囲ではなかった」
「それも変だと思った?」
「ああ」
「調べなかった」
「ああ」
男は決まった時に現れた。
文書を置く。
特別受領の印を押させる。
処理先を指示する。
終われば控えを回収する。
どこから来るのか。
どこへ帰るのか。
古参は知らなかった。
知ろうともしなかった。
「人員の文書は何件処理した」
ログが聞く。
「正確な数は分からん」
「分かる範囲で言え」
古参は記憶を辿る。
一人だけの時もあった。
複数の時もあった。
所属変更。
中央管理局への出頭。
長官室預かり。
書き方は違ったが、その後の行き先が残っていない点は同じだった。
「少なくとも十人以上」
「子供は」
「年齢は書かれていなかった」
「見たことは」
古参の口が止まる。
ログは待った。
「一度だけ」
古参が答えた。
中央管理局の裏口に、若い男が二人立っていた。
その間に、小柄な者がいた。
頭から外套を被せられていて、顔は見えなかった。
自分で歩いていた。
だが両腕を押さえられていた。
「子供だったのか」
「分からん」
「お前はどう思った」
古参の指が強く組まれる。
「子供に見えた」
「それでも何もしなかった」
「ああ」
白衣が目を伏せた。
ログは古参から目を逸らさない。
「その後は」
文書が来るたび。
古参は処理した。
おかしいと思いながら。
行き先のない人間を異動させた。
発出元のない命令で物を送った。
何年かして、別の部署への異動を願い出た。
受理された。
中央管理局を離れた。
「逃げたのか」
「そうだ」
「誰にも話さず?」
「ああ」
「調べもせず?」
「ああ」
「自分だけ?」
古参の顔が歪む。
だが。
否定しなかった。
「そうだ」
ログが机へ手を置く。
拳が震えている。
「今夜の男は」
レオが聞いた。
「十二年前に死亡したと記録されている」
「死んだところを見たのか」
「見ていない」
「葬儀は」
「知らん」
「死亡記録を見て、疑わなかった?」
「疑った」
古参は答えた。
「だが、もう中央管理局を離れていた」
「また黙った」
「ああ」
部屋が静かになった。
水路を流れる音が、窓の外から聞こえてくる。
ログはしばらく古参を見ていた。
「文書番号を見た時」
古参の肩が僅かに動く。
「あの店で」
机の上へ通知を並べた時。
年代も部署も違う文書に、同じ二文字が残っていると気づいた時。
「知ってたんだな」
「同じものだとは断定できなかった」
ログが机を殴った。
「それを聞いてんじゃねぇ!」
古い机が揺れる。
「見たことがあったのかって聞いてんだ!」
古参は俯いた。
「……あった」
「なら何で言わなかった」
「確証が」
「それも聞いた!」
ログが古参の胸倉をもう一度掴む。
椅子から引き上げる。
「見たことがある」
「昔、似た文書を処理した」
「それだけ言えばよかっただろ!」
古参は何も言えない。
「俺達が何年分も帳簿をひっくり返してる間、お前は何してた」
「探していた」
「何を」
「今も続いているのか」
「自分が処理したものと同じなのか」
「だから先に言え!」
声が小屋へ響く。
外にいる常連達も聞いている。
誰も入ってこなかった。
「俺達を使ったのか」
古参が顔を上げる。
「違う」
「何が違う」
「止めたかった」
「でも自分が関わってたことは隠したかった」
古参の口が閉じる。
ログが睨む。
「違うのか」
答えはなかった。
主が煙草の灰を落とす。
「保身だ」
古参の顔が動いた。
主は壁にもたれたまま続ける。
「真相は知りたい」
「今も続いているなら止めたい」
「だが、自分の過去は知られたくない」
「黙ったまま、こいつらに調べさせた」
古参が主を見る。
「違うか」
長い沈黙。
古参の肩から力が抜けた。
「……違わん」
ログが手を離す。
古参は椅子へ戻らず、その場に立っていた。
「もし」
ログが言う。
「同じ番号が見つからなかったら」
古参は顔を上げない。
「お前は話したか」
答えは分かっていた。
それでもログは待った。
古参が口を開く。
「話さなかったと思う」
常連の一人が扉の外で動いた。
低い声が聞こえる。
「水路なら、すぐそこだぞ」
別の常連が止める。
「まだ待て」
「まだ?」
「全部吐かせてからだ」
古参の顔が引きつる。
だが。
何も言い返さなかった。
レオが古参の前へ立つ。
「他に隠していることは」
「ない」
「よく考えてください」
古参は目を閉じた。
今度は逃げ道を探すためではない。
長い間、触れないようにしていた記憶を一つずつ辿る。
文書を運んできた男。
長官室にない机。
発出元の空欄。
照会不要の印。
人員を引き渡す場所。
中央管理局の裏口。
小柄な人影。
そして。
男が文書を持ってくる前日には、必ず長官室から通常業務の停止が命じられていた。
理由は書かれていない。
裏口付近から役人を遠ざけるためだったのかもしれない。
男は一人で来ることもあった。
二人の時もあった。
同行者は毎回違う。
だが全員。
「靴が同じだった」
ログが見る。
「靴?」
「黒い革靴だ。踵の外側に金具が付いていた」
「役人の靴じゃないのか」
「役人はあんなものを履かん。歩く度に音がする」
古参は思い出したことを、そのまま話した。
一度。
男の上着の内側に、別の印を見たことがある。
何の印かは分からない。
円の中に、縦線が三本。
中央の一本だけが長かった。
正式な役所の印ではない。
少なくとも、古参が知るものではなかった。
「これで全部だ」
古参が言った。
「今、覚えていることは」
ログはすぐには答えなかった。
古参を追い出すことはできる。
役所へ突き出すこともできる。
だが。
二十年以上前の文書を知っている。
今夜の男の顔を知っている。
当時の中央管理局も知っている。
捨てられる手掛かりではなかった。
「残れ」
ログが言った。
古参が顔を上げる。
「ただし」
声は冷たい。
「一人で動くな」
「書類にも勝手に触るな」
「知ってることは全部話せ」
「思い出したら、その場で言え」
「分かった」
「その返事も信用してねぇ」
古参は目を伏せた。
「……ああ」
外の常連が小屋へ入ってくる。
古参を見る目は、以前と違っていた。
「こいつも連れてくのか」
「ああ」
「信用できるのか」
「できねぇ」
ログは即答した。
「だが、こいつの頭に残ってる手掛かりまで捨てる余裕もねぇ」
「また隠してたら?」
常連が水路を見る。
ログも見る。
「その時は止めねぇ」
古参の顔が強張った。
主が煙草を咥える。
「自分で泳げ」
「流す前提か」
「次はな」
古参は黙った。
その時。
窓の外から、小さな音がした。
石を二度打つ音。
少し間を置いて。
もう一度。
筒を見張っていた常連からの合図だった。
誰かが来た。
部屋の空気が変わる。
ログが窓へ寄る。
水路の向こう。
外套を着た人影が、石壁へ近づいていた。
死んだ役人が隠した紙。
それを回収しに来た者。
古参が人影を見ようとする。
ログが腕を掴んだ。
「お前も来い」
「信用しないんだろ」
「ああ」
ログは扉を開ける。
「だから目の前に置く」




