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第8章 ⑦ 

男は記録庫へ続く階段を下りていく。


廊下には灯りが残っていた。


箱を運んでいた常連は、男を追わなかった。


床へ置いた箱を持ち上げ、そのまま反対側へ歩く。


曲がり角。


別の常連が帳面を抱えて立っていた。


すれ違いざま。


「長官室」


それだけ伝える。


帳面を持った常連も男を見なかった。


少し遅れて同じ廊下を進む。


男は記録庫の前で止まった。


扉の横には、役人の上着を着た常連が座っている。


箱の中身を一つずつ紙へ書き写していた。


字は遅い。


だが真面目に働いているようには見える。


男が腕章を示す。


「中へ入る」


常連は顔を上げた。


「この時間に?」


「忘れ物だ」


「長官室では」


男の目が僅かに動く。


「先に、こちらで確認するものがある」


常連は男を見る。


それから机の上の紙を差し出した。


「署名を」


「必要ない」


「夜間の入室には必要です」


古参に教えられたとおりだった。


男の顔に苛立ちが浮かぶ。


「明日の朝に使う書類を取りに来ただけだ」


「担当ではありませんので」


「なら誰の担当だ」


「管理官へ確認してください」


男が黙る。


常連も黙って見返した。


少しして。


男は紙を取った。


名前を書く。


常連はその文字を確認しなかった。


読めなかった。


「どうぞ」


鍵を開ける。


男は中へ入った。


常連も後に続く。


「何で来る」


「夜間の立ち会いです」


「外で待て」


「規則ですので」


本当かどうかは知らない。


男も確かめる気はないようだった。


記録庫の中には、もう一人の常連がいた。


棚から帳簿を下ろし、箱へ詰めている。


男を一度見る。


すぐに作業へ戻った。


見知らぬ顔が二人。


だが、男は何も聞かなかった。


記録庫では今夜だけで何十人もの役人が出入りしている。


下働きの名前や顔など、覚える気もないらしい。


男は棚の間を進んだ。


迷わない。


奥から三列目。


中央管理局の受領記録が置かれた場所だった。


一冊目。


違う。


二冊目も手に取る。


年代を見る。


戻す。


三冊目で手が止まった。


今夜、写しへ入れ替えた受領簿。


男は頁をめくる。


速かった。


探す場所を知っている。


特別受領。


照会不要。


発出元は空欄。


男は目的の頁を見つけると、周囲を見た。


入口にいた常連は少し離れた机で、入室記録を整理している。


もう一人は背を向け、箱へ帳簿を入れていた。


男は懐へ手を入れた。


細い刃物を出す。


頁の綴じ目へ差し込んだ。


音を立てずに切る。


一枚。


その裏。


次の頁も。


全部で四枚。


二十年以上前から現在まで、同じ文書番号が並んでいる部分だった。


切り取った紙を折り、上着の内側へ入れる。


刃物を拭く。


受領簿を閉じ、元の位置へ戻した。


手慣れていた。


初めてではない。


常連は何も言わなかった。


男が入口へ戻る。


「見つかりましたか」


「なかった」


「そうですか」


「署名は消しておけ」


「できません」


男が常連を見る。


「入室しなかったことにしろ」


「管理官へ確認してください」


「お前」


「担当ではありませんので」


男は何か言いかけた。


だが諦めた。


記録庫を出る。


階段を上がる。


廊下の常連はまだ箱を運んでいた。


男が通り過ぎる。


数を数える。


五つ。


そこで箱を床へ置いた。


上に積まれた帳簿を一冊、横向きにする。


役所の正面。


机に座っていた常連がそれを見る。


男が来た。


「もう帰る」


「忘れ物は」


「見つからなかった」


「そうですか」


常連が扉を開ける。


「お疲れさまでした」


男は返事をせず外へ出た。


扉が閉まる。


常連は机の上の紙を一枚、窓際へ移した。


外から見える位置。


向かいの建物にいた男が立ち上がる。


知らせは次へ渡った。


役所から少し離れた路地。


ログが壁にもたれている。


隣には古参がいた。


「出た」


向かいから常連が歩いてくる。


二人の前を通り過ぎながら、小さく言った。


「紙を持ってる」


「どっちへ行った」


「北」


ログが壁から離れる。


古参も続いた。


男は役所通りを北へ進んでいた。


急いではいない。


振り返りもしない。


何も知らず、夜勤を終えて帰る役人に見える。


だが帰宅する人間の道ではなかった。


住宅区へ入る角を曲がらず、そのまま役所街の外れへ向かう。


先に待っていた常連が後を追う。


一定の距離を空ける。


次の角まで。


そこで止まり、店先の壁へ手を置いた。


指を二度叩く。


反対側の路地にいた者が動く。


一人がずっと追うことはない。


顔を覚えられないよう、何度も交代する。


地下街では珍しくないやり方だった。


借金から逃げる者。


盗品を運ぶ者。


よそ者を案内する者。


理由は違っても、誰かに見られたくない人間は同じように歩く。


男は一度だけ立ち止まった。


靴紐を直す振りをして、後ろを見る。


通りにいたのは。


閉店の片づけをする店主。


酔って壁に寄りかかる男。


荷車を押す下働き。


どれも《鴉樽》の人間だった。


男は気づかない。


再び歩き始める。


ログが少し離れて追う。


古参も隣にいる。


「顔を見たか」


ログが聞く。


「ああ」


古参の返事が短かった。


「知ってるのか」


「……分からん」


「何だそれ」


「暗かった」


ログが古参を見る。


古参は前だけを見ている。


男が灯りの下を通った。


横顔が見える。


髪には白いものが混じっていた。


頬は痩せ、目の周りに深い皺がある。


古参の足が止まりかけた。


すぐに歩き出す。


だがログは見ていた。


「知ってるな」


「今は追え」


「誰だ」


古参は答えない。


ログが腕を掴む。


「おい」


「見失うぞ」


「なら歩きながら話せ」


古参はログの手を振りほどいた。


男との距離が開く。


前方で常連が曲がり角に立ち、進行方向を示した。


二人も後を追う。


役所街を抜ける。


古い倉庫が並ぶ区画へ入った。


その先には水路がある。


王都の外から引き込まれ、地下へ流れていく水路。


昼間は荷を運ぶ小舟が行き交うが、この時間にはほとんど人がいない。


男は水路沿いの道へ下りた。


石壁の間を進む。


古い橋を一つ越える。


閉鎖された荷揚げ場の前で止まった。


周囲を見る。


誰もいない。


男は上着の内側から、切り取った紙を出した。


水路へは捨てない。


石壁の一部へ手をかける。


小さな石を外した。


奥に細長い筒が入っている。


蓋を開け、紙を押し込む。


元へ戻す。


それだけだった。


男は来た道を戻り始める。


ログが動こうとする。


古参が腕を掴んだ。


「待て」


「何でだ」


「紙を取りに来る奴がいる」


「こいつも追う」


ログが水路の上を見る。


橋の向こう。


そこに常連が一人いる。


男の後を任せる。


常連は小さく頷き、歩き出した。


ログ達は残った。


石壁に隠された筒。


誰が取りに来るのか。


レオと他の常連達も、少しずつ水路へ集まってくる。


古参は暗い道の先を見たまま動かなかった。


ログが隣に立つ。


「さっきの奴」


古参は答えない。


「誰だ」


沈黙が続く。


水の音だけが聞こえる。


「中央管理局にいた男だ」


ようやく古参が答えた。


「いつ」


「二十年以上前」


「何をしてた」


「長官室で、外から来る文書を受け取っていた」


レオが古参を見る。


「特別受領か」


「ああ」


「人員記録では?」


古参の声が低くなる。


「十二年前に死亡」


誰も喋らなかった。


今、役所へ入り。


受領簿から頁を切り取り。


水路へ隠した男。


その人間は十二年前に死んでいる。


少なくとも。


国の記録では。


ログが古参を見る。


「何でお前が知ってる」


古参は水路から目を逸らさなかった。


「同じ役所にいたからだ」


「それだけか」


答えない。


ログの手が古参の胸倉を掴んだ。


「何で黙ってた」


「今は筒を見張れ」


「話を逸らすな」


「取りに来る」


「常連が見てる」


古参が初めてログを見る。


ログの目に、さっきまでとは違うものがあった。


疑い。


怒り。


そして。


失望。


古参はしばらく黙っていた。


逃げ道を探すように。


だが、もう何もなかった。


「俺もだ」


「何が」


古参はゆっくり息を吐いた。


「俺も昔」


ログの手は離れない。


「同じ番号の文書を処理していた」

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