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第8章 ⑥ 

《鴉樽》へ戻る頃には、夜が明け始めていた。


店の奥には、まだ灯りがついている。


主は同じ場所に座っていた。


白衣もいる。


常連達は机や壁にもたれ、半分眠っていた。


ログが入る。


「いた」


主が見る。


「何が」


「命令してる奴だ」


「見つけたのか」


「まだだ」


主は煙草を咥えた。


「なら、いないのと同じだ」


「いる」


ログは向かいの椅子へ座る。


「部署はねぇ」


「名前もねぇ」


「でも二十年以上、そいつの命令で人と物が動いてる」


白衣が顔を上げた。


古参は文書番号を書いた紙を机へ置く。


中央管理局の番号ではなかった。


他の役所にも登録されていない。


それでも文書は受領され、処理されていた。


特別受領。


照会不要。


発出元は空欄。


主が煙を吐いた。


「なるほど」


ログが身を乗り出す。


「引っ張り出すぞ」


「どうやって」


「それを考える」


「考えてから言え」


ログが黙った。


常連の一人が笑う。


「珍しいな」


「何がだ」


「考える気はあるらしい」


「うるせぇ」


古参は椅子へ座り、役所から持ち帰った控えを広げた。


最新の受領記録。


同じ番号から始まる文書は、今も途切れていない。


一番新しいものは十日前。


食料と薬。


処理はすでに終わっていた。


その一つ前は建材。


さらに前は人員の引き渡し。


どれも発出元は空欄だった。


レオが控えを見る。


「次の命令が来るまで待つか?」


「いつ来るか分からん」


古参が答えた。


「一月後かもしれん。明日かもしれん」


「なら、この記録官に聞く」


ログが言った。


中央管理局長官室付記録官。


現在も役所に籍があるかもしれない男。


受領簿へ何度も名前が残っていた。


古参が首を振る。


「正面から聞けば、知らないで終わる」


「吐かせる」


「役人を持って帰るなと言われただろ」


主が煙草を咥えたまま頷く。


「言った」


「まだ持って帰ってねぇ」


「これからやる話だ」


ログが主を見る。


主も見る。


「駄目か」


「駄目だ」


即答だった。


古参が控えの端を指で叩いた。


「聞かずに動かす」


「どうやって」


「知らせるんだ」


「何を」


「特別受領に関する記録を、明日の朝に別の保管庫へ移す」


レオが古参を見る。


「本当に移すのか」


「原本は今夜のうちに別の場所へ移す」


「それを向こうには知らせない?」


「ああ」


役所の記録庫に残すのは写しだけ。


原本は封をし、管理官とレオの立ち会いで別室へ移す。


そのことを知る者は最小限にする。


そのうえで。


中央管理局長官室付記録官へ、正式な通知を出す。


発出元不明の文書について、明朝から調査を開始する。


関係する受領簿も移送する。


記録官本人にも出頭を求める。


「何も知らないなら」


古参が言う。


「通知を受け取って、明日の朝に来る」


「知ってたら?」


ログが聞く。


「誰かに知らせる」


レオが続けた。


「逃げるかもしれない」


「記録を消しに来るかもしれん」


「記録官を消すかもな」


白衣が言った。


店の空気が変わった。


ログの顔から笑いが消える。


「見張るぞ」


「ああ」


古参が答えた。


「記録官も、記録庫もだ」


「役人にやらせるのか」


常連の一人が聞いた。


古参は答えなかった。


誰が繋がっているのか分からない。


中央管理局だけではない。


今いる役所にも、命令を流している側の人間がいるかもしれない。


見張りを任された役人が内通者なら。


誰かが夜中に戻ってきても止めない。


忘れ物。


追加の仕事。


上司からの指示。


理由はいくらでも作れる。


同僚なら、顔も知っている。


疑わずに通す可能性もある。


主が店内を見回した。


壁際。


机の周り。


眠そうな常連達がいる。


「こいつらを使え」


常連達が一斉に顔を上げた。


「俺達?」


「役人の振りをしろ」


店が静かになった。


一人が自分の服を見る。


「無理じゃねぇか」


「少し洗えばいい」


ミナが言った。


常連が傷ついた顔をした。


「少しか?」


「たくさん洗えばいい」


「増えたぞ」


主が煙草の灰を落とす。


「髪を整えろ」


「髭も剃れ」


「服は役所から借りる」


「待て」


別の常連が言った。


「顔でばれるだろ」


古参が常連達を見る。


一人ずつ。


長く地下街で暮らしてきた男達。


目の下には隈がある。


背中は少し曲がっている。


朝まで酒を飲んでいたせいで顔色も悪い。


古参は答えた。


「徹夜で働いている役人にしか見えん」


「本当か?」


「ああ」


「褒められてる気がしねぇ」


「褒めてない」


レオが控えを畳む。


「今夜は記録整理のため、複数の部署から応援が入っている」


普段から同じ役所で働いている者同士でも、全員の顔までは知らない。


まして上役が、下で書類を運んでいる人間の顔や名前を覚えている可能性は低い。


少し離れた部署から回された。


夜間だけ雇われた。


記録を運ぶために集められた。


そう言えば通る。


今の役所なら、見慣れない顔がいても不自然ではなかった。


「何をすりゃいい」


常連が聞く。


「入口」


古参が一人を指す。


「廊下」


もう一人。


「記録庫の中」


次。


「裏口」


さらに二人。


「外にも置く」


ログが言った。


「中だけじゃ足りねぇ」


記録を消しに来た者を、その場で捕まえても意味がない。


誰に命じられたのか。


どこへ戻るのか。


他に誰と繋がっているのか。


外へ出した後を追う必要がある。


ただし。


火をつけようとした場合。


誰かを襲った場合。


記録を持ち出そうとした場合。


その場で止める。


「記録官の家にも人を置く」


ログが言う。


「通知を受け取った後、誰に会うか見る」


古参がログを見た。


「お前はそっちだ」


「何でだ」


「役人には見えん」


「こいつらが見えるなら、俺も見えるだろ」


常連達がログを見る。


誰も頷かなかった。


「何だよ」


一人が遠慮がちに答える。


「お前みたいな役人がいたら」


「いたら?」


「問題になる」


笑いが起きた。


ログが睨む。


主だけは笑わなかった。


「お前は外だ」


「何でだよ」


「顔が知られている」


地下街だけではない。


役所でも。


警邏でも。


中央管理局でも。


ログの顔を知っている者は増えていた。


中へ入れば、見張っていると知らせるようなものだった。


「外から追え」


主が言う。


ログは納得していなかった。


だが反対もしなかった。


「分かった」


古参が少し驚いた顔をする。


「素直だな」


「うるせぇ」


ミナが奥から湯の入った桶を持ってきた。


常連の前へ置く。


「じゃあ洗って」


「今から?」


「今から」


「寝てないんだぞ」


「役人らしくていいじゃない」


「役人は大変だな」


「お前達はまだ役人じゃない」


古参が言った。


常連が湯へ手を伸ばす。


主が付け加えた。


「それと」


全員が見る。


「今夜は酒を飲むな」


伸ばされた手が止まった。


店の中が静まり返る。


「……何でだ」


「臭いでばれる」


「役人も酒くらい飲むだろ」


「勤務中だ」


「夜中だぞ」


「役所の中だ」


常連達が酒樽を見る。


主が立ち上がり、樽を奥へ動かした。


「終わるまで禁酒だ」


「厳しい仕事だな」


「国が相手だからな」


「そこじゃねぇだろ」


ログが言った。


準備が始まった。


レオは役所へ戻り、管理官と話をつける。


記録整理の臨時人員として、地下区から数人を雇い入れる。


名目は箱の運搬と夜間警備。


名前だけの簡単な名簿を作る。


詳しい配置は載せない。


管理官にも、誰が何を見張るかまでは知らせなかった。


古参は常連達へ、役所での振る舞いを教えた。


「何か聞かれても詳しく答えるな」


「何て言えばいい」


「担当ではありません」


常連が頷く。


「他には」


「管理官へ確認してください」


「それだけか」


「署名を求めろ」


「何の」


「何でもいい」


「何でもいいのか?」


「署名が必要だと言えば、大抵の奴は面倒になって帰る」


常連達が感心した。


「役人みてぇだな」


古参の顔が一瞬止まる。


「役人だったんだよ」


「そうだった」


古参は次の常連へ向き直った。


「お前は喋るな」


「何でだ」


「余計なことを言う」


「まだ何も言ってねぇ」


「今ので分かる」


昼を過ぎる頃。


常連達は見違えていた。


正確には。


少しだけ小綺麗になっていた。


髪を整え。


髭を剃り。


役所から借りた地味な上着を着る。


新品ではない。


何人もの役人が着回してきたらしく、袖口は擦れ、肩には紙埃が残っている。


腕章を巻く。


書類の束を持たせる。


それだけで、疲れ切った夜間勤務の役人が出来上がった。


ミナが並んだ男達を見る。


「いるね」


「何が」


「こういう役人」


常連の一人が自分の姿を見る。


「俺もそう思う」


主は何も言わず、全員を役所へ送り出した。


日が落ちる前。


受領簿の原本が記録庫から出された。


管理官とレオが封を確認し、別棟の保管室へ移す。


記録庫へ戻した箱には写しを入れた。


見ただけでは分からない。


同じ頃。


中央管理局長官室付記録官へ通知が届けられた。


発出元不明文書に関する調査。


受領簿の移送。


翌朝の出頭。


通知を渡した役人が戻るまで、ログ達は離れた場所で待った。


「受け取った」


役人が言う。


「何か言ったか」


ログが聞く。


「何も」


「顔は」


「少し驚いていた」


「その後は」


「机へ戻った」


まだ動いていない。


記録官の見張りを二人残す。


ログは役所近くの路地へ移った。


建物の灯りが見える。


入口には常連が座っている。


机の上に紙を広げ、難しそうな顔をしていた。


読んでいるように見える。


上下が逆だった。


古参が横を通りながら直した。


「気をつけろ」


「分かってる」


「分かってなかっただろ」


「今は分かった」


廊下では別の常連が箱を運んでいる。


記録庫の中にも一人。


裏口に二人。


外の路地。


向かいの建物。


屋根の上。


地下街の人間が散っていた。


誰も互いを見ない。


役所へ出入りする者だけを見る。


夜が深くなった。


何も起きない。


一刻。


二刻。


入口の常連が欠伸をする。


本物の役人が横を通った。


「眠いのか」


「夜勤ですから」


「そうだな」


それだけで通り過ぎる。


常連は少し自信を持った。


さらに時間が過ぎた。


日付が変わる頃。


一人の男が役所の前へ来た。


地味な上着。


手には何も持っていない。


足取りに迷いはなかった。


入口の常連が顔を上げる。


男は腕章を見せた。


中央管理局。


「忘れ物をした」


常連は男を見る。


「どちらです」


「長官室だ」


「夜中ですが」


「明日の朝に必要なんだ」


男は苛立った様子で答えた。


常連は少し考える振りをした。


それから道を空ける。


「どうぞ」


男が中へ入る。


常連は止めなかった。


呼びもしない。


ただ、机の上の紙を一枚裏返した。


廊下の奥。


箱を運んでいた別の常連が、それを見る。


箱を床へ置く。


二度。


軽く蓋を叩いた。


音が記録庫へ届く。


裏口へ届く。


外へ繋がる。


男は廊下を曲がった。


長官室には向かわなかった。


階段を下りる。


迷わず。


記録庫へ向かっていた。


暗い路地で、ログが壁から背を離した。


撒いた餌に。


最初の一匹が近づいていた。

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