第7章 ㉑
誰も動かなかった。
空になった棚。
その奥にたった一枚だけ残された紙。
古参が近付く。
慎重に手を伸ばした。
「罠か」
役人の一人が呟く。
「紙だぞ」
ログが言う。
「お前は黙ってろ」
「何でだ」
古参は無視した。
紙を拾う。
折られている。
記録でも報告書でもない。
一枚だけ、誰かが意図的に置いたものだった。
古参が開く。
その動きが止まった。
レオが顔を上げる。
「何だ」
古参は答えない。
紙を見たままだ。
レオが歩み寄る。
横から覗く。
そして顔色が変わった。
「……嘘だろ」
ログが眉を寄せる。
「だから何だ」
紙を奪う。
そこに書かれていた文字を見る。
一行。
たった一行だけだった。
『スヴェトグラス』
部屋から音が消えた。
役人達は意味が分からない。
だが。
ログとレオ。
そして古参は違った。
「知ってやがる」
レオが低く言った。
古参が紙を見つめる。
「何なんだ」
役人の一人が聞く。
誰も答えない。
答えられなかった。
地下機構。
情報局。
繋がれた人間。
そして合言葉。
それを知っている人間が。
今も役所の中にいる。
ログが紙を握る。
「喧嘩売ってるな」
古参も頷いた。
「ああ」
偶然ではない。
警告でもない。
これは確認だ。
自分達が何を追っているか。
向こうは知っている。
そして向こうも自分達を見ている。
レオが聞く。
「誰が置いた」
「分からん」
古参は首を振った。
「だが」
紙を見る。
「少なくとも機構を知ってる奴だ」
役人達は顔を見合わせる。
話についていけていない。
だが状況だけは理解できた。
この紙は普通ではない。
その時奥にいた年配の役人が口を開いた。
「待て」
全員が振り返る。
「どうした」
古参が聞く。
年配の役人は紙を見ている。
「その言葉」
古参の目が細くなる。
「知ってるのか」
「いや」
首を振る。
「言葉じゃない」
役人は棚を見る。
「字だ」
部屋が静かになる。
「何だと」
古参が近付く。
役人は紙を指差した。
「この字に見覚えがある」
レオの顔が変わった。
「誰だ」
役人は少し考える。
記憶を探るように。
そして。
「人事の奴だ」
誰も動かなかった。
「持ち出し許可を出した行方不明のそいつだ」
役人が答える。
古参が紙を奪う。
もう一度見る。
確かに。
持ち出し記録の署名と似ていた。
「本人が書いたのか」
「分からん」
年配の役人は首を振った。
「だが俺にはそう見える」
レオが拳を握る。
「逃げた奴か」
「あるいは」
古参が言う。
「逃がされた奴だ」
ログが笑った。
「どっちでもいい」
全員が見る。
ログは紙を折った。
懐へ入れる。
「探す」
古参が睨む。
「どこをだ」
「人事」
即答だった。
「家」
「知り合い」
「行きつけ」
「全部だ」
古参は止めなかった。
止められなかった。
自分も同じことを考えていたからだ。
その時。
記録庫の外から慌ただしい足音が聞こえた。
一人。
また一人。
役人が駆け込んでくる。
顔色が悪い。
「古参!」
「今度は何だ」
「人事の机だ!」
古参が振り返る。
「何があった」
役人は息を切らしながら言った。
「引き出しが全部空になってる!」
誰も言葉を発しなかった。
記録庫だけではない。
人事課も。
向こうは最初から消すつもりだった。
十五年前の痕跡を。
一つ残らず。
「先手を取られたな」
レオが呟く。
古参は拳を握る。
「ああ」
だがログだけは笑っていた。
「いや」
全員が見る。
「向こうも慌ててる」
ログは空になった棚を見た。
床に散らばる紙切れ。
運び切れなかった記録。
置いていかれた紙。
「余裕がある奴は」
懐の紙を叩く。
「こんなもん残さねぇ」
古参は黙った。
その通りだった。
向こうは消している。
必死に。
追われる側のように。
それはつまり。
追われる理由があるということだった。




