第6話:ショーケン、参上
その翌週、月曜日の朝。
里美がバックヤードで発注データを確認していると、
表のドアをノックする音がした。業者には早い時間だ。
里美は眉をひそめながら表へ出た。
ガラス越しに、スーツ姿の男が立っていた。
三十代半ば。細身だが肩幅がある。
スーツはきちんとしているが、ネクタイが少し緩い。
にコンビニのコーヒー。左手にレザーのブリーフケース。
里美がドアを開けると、男は軽く片手を上げた。
「どうも〜。ギガ・リンクの庄屋です。連絡してたやつ」
「……はい、お待ちしていました」
「いや〜、早く来すぎました?
すみませんね、朝型なもんで」
全然すみなさそうな顔で言った。
庄屋賢治です。
現場ではショーケンって呼んでください」
里美は一瞬だけ面食らったが、
すぐに営業スマイルを貼り付けた。
「……はい、よろしくお願いします、庄屋さん」
「ショーケンで」
「……ショーケンさん、で」
「さんもいらないっすけど、まあいいか」
庄屋はコーヒーを一口飲んだ。里美は笑顔を保ったまま、
この男をどう扱えばいいか、内心で高速計算していた。
――――――
庄屋は店内をひと通り見渡した。厨房。レジ。動線。在庫棚。
ゆっくりと、しかし何も見逃さない目で。
「きれいにしてますね〜、ここ」
「ありがとうございます」
「本社の他の店舗、もっとごちゃごちゃしてるんっすよ。
なんでここだけこんなに整ってるんっすかね」
「スタッフ全員で意識してますので」
「へえ」
庄屋はそれ以上突っ込まなかった。
ただ、メモ帳に何かを書いた。
里美には、何を書いたか見えなかった。
――――――
開店してしばらく、
庄屋はカウンターの端に座ってコーヒーを飲んでいた。
邪魔にならない場所を、自分で選んでいた。
客の流れを見ている。スタッフの動きを見ている。
特定の誰かを見ているわけではない。ただ、全体を見ている。
昼のラッシュが始まった。
レジが三台同時に動く。フライヤーが唸る。トレイが行き来する。
庄屋はその中で、コーヒーを飲み続けた。
ラッシュが落ち着いた頃、ノートPCを開いた。
画面に何が映っているか、里美からは見えなかった。
――――――
午後三時。客が引いた頃。
庄屋がコーヒーを二つ持ってバックヤードに入ってきた。
「どうぞ」と里美に渡した。
「ありがとうございます」
庄屋はパイプ椅子に逆向きに座った。
「繁盛してますね〜、ここ」
「おかげさまで」
「GLRが潰れて、配送どうしたんっすか。困りませんでした?」
「私です」
里美は即座に答えていた。
反射だった。本社の人間に「印鑑を押した記憶がない」などと言えるわけがない。
管理能力を疑われる。それだけは避けなければならない。
有能な店長代理として三年間積み上げてきたものが、
この一言で崩れる。だから嘘をついた。
笑顔のまま、一秒も躊躇わずに。
「GLさんが突然だったので、すぐ動きました」
「へえ、早いっすね。
倒産の翌日には別業者と契約してたじゃないですか」
「ええ、まあ」
「取引先、どうやって見つけたんっすか。あの短時間で」
里美は笑顔を保ったまま、一瞬だけ間を置いた。
「以前から、いくつか候補を持っていました。
備えは大事なので」
「さすがっすね〜」
庄屋はにこっと笑った。
それ以上は聞かなかった。
里美は笑顔のまま、コーヒーを一口飲んだ。
胃が、少し痛かった。
――――――
閉店間際。
庄屋がブリーフケースを持って立ち上がった。
「今日はありがとうございました。また来ますね」
「はい、いつでも」
「あ、そうだ」
庄屋は出がけに振り返った。
「このロス率の改善、いつ頃から始まったっすか」
「三ヶ月ほど前から、少しずつ」
「三ヶ月前」庄屋は繰り返した。「何か変えました?」
「動線の見直しと、仕入れのタイミングの調整を」
「なるほど〜」
庄屋はメモ帳に何かを書いた。
「スタッフの入れ替わりとかは?」
里美は一瞬だけ、厨房の方を見た。
「……新しいスタッフが一人入りました。同じ頃に」
「へえ」
庄屋はメモ帳を閉じた。
「じゃ、また明日来ます。
テリヤキ、明日食べさせてください」
軽い足取りで、出ていった。
里美はしばらく、閉まったドアを見ていた。
「新しいスタッフが一人入りました」
と自分で言った言葉が、頭の中で繰り返された。
――――――
その夜。
庄屋はホテルの部屋で、ノートPCを開いていた。
画面には、この店舗の三ヶ月分のデータが並んでいた。
缶ビールを開けた。
ロス率の改善が始まった時期。
仕入れタイミングの変化。動線の最適化。
数字の動きを追っていくと、
すべての変化が同じ週から始まっていた。
庄屋は人事記録を開いた。
その週に入ったスタッフ。
名前が、一つだけあった。
片桐優作。
「……へえ」
庄屋はビールを一口飲んだ。
履歴書の添付ファイルを開く。写真。学歴。職歴。
職歴の欄に、三年間の空白があった。
その前の職歴を見た。
庄屋の手が、止まった。
「……ギガ・リンク、か」
誰もいないホテルの部屋で、独り言を言った。
――――――
缶ビールを置いた。
しばらく、画面を見た。
ギガ・リンクの元社員が、
三年の空白を経て、
ギガ・リンクの子会社が取引していた店でバイトをしている。
偶然、と片付けるには、少し出来すぎている。
庄屋は社内ポータルを開いた。
人事データベース。退職者記録。「片桐優作」で検索する。
ヒットした。
片桐優作。
元経営戦略部主任技師。
物流最適化プログラム開発責任者。退職理由:自己都合。
自己都合。
庄屋は眉をひそめた。
主任技師が自己都合で突然消える。
しかも退職の記録の周辺に、何もない。査定記録も、
引き継ぎ文書も、送別会の記録すら——ない。
まるで、消されたみたいに。
庄屋はビールを一口飲んだ。
それから、少し考えた。
開いてはいけないフォルダがあることは、知っていた。
経営企画部のエリートなら、その存在くらいは知っている。
ただ、アクセス権限は——
庄屋は自分のIDでログインを試みた。
弾かれた。
「……だよな」
庄屋は苦笑いした。それから、少し考えた。
三秒くらい。
昨年のセキュリティ研修で、
テスト用の管理者IDを払い出された記録があった。
研修後に失効させるはずが、
手続きが漏れていたことを、庄屋はたまたま知っていた。
「……まあ、俺のせいじゃないよな」
誰もいない部屋で、言い訳を言った。
ログインした。
――――――
フォルダの中に、優作の名前があった。
開いた。
最初に目に入ったのは、社内評価レポートだった。
「物流最適化プログラムにおける卓越した実績。次世代幹部候補として最高評価。」
次のファイルを開いた。インシデントレポート。日付は退職の三ヶ月前。
内容は、黒塗りだった。
ただ、タイトルだけが残っていた。「アフリカ現地法人における安全管理基準の逸脱について」
庄屋は、その行を三回読んだ。次のファイル。退職前後のメール記録。
ほとんどが削除されていた。
しかし一通だけ、断片が残っていた。送信者は優作。宛先は当時の部門長。
「……アフリカ現地法人で事故が起きたと聞きました。
死傷者の中に、現場作業員が含まれていると。
私のプログラムとの関連を確認させてください。
もし私の改修が原因に……」そこで、文章が途切れていた。
返信の記録は、なかった。
庄屋はしばらく、その断片を見た。
缶ビールが、ぬるくなっていた。
「
……なんだこれ」
今度の独り言は、さっきとは違うトーンだった。
庄屋はPCを閉じた。閉じて、天井を見た。
ホテルの白い天井。
「アフリカ現地法人における安全管理基準の逸脱」。
「私のプログラムとの関連を確認させてください」。
「返信の記録は、なかった」。
庄屋はその三つを、頭の中で繋げてみた。
繋がった。
繋げたくなかったが、繋がった。
優作は——事故を知って、確認を求めた。
しかし誰も、答えなかった。
返信のないまま、優作は消えた。
そして三年後——この男は、
ハッピー・スター・バーガーでポテトを揚げている。
全ての責任を、自分一人で背負ったまま。
「……なんだこれ」
同じ言葉を、もう一度言った。
今度は、もっと小さな声で。
――――――
翌朝。
庄屋はいつもより少し早く、
ハッピー・スター・バーガーに来た。
開店前の厨房に、優作がいた。
仕込みをしている。無精髭。くたびれたエプロン。
庄屋はカウンターに座って、コーヒーを飲んだ。
優作の背中を、見た。
昨日と同じ背中だった。
しかし昨日とは、全く違う目で見ていた。
――――――
(ARK)
バックヤードで仕込みを続けながら、
優作はインイヤーに触れた。
『はい』
(昨夜、社内インフラに不審なアクセスがあったな)
『……はい。経営企画部のIDで、
退職者の機密フォルダへのアクセスが記録されています。
使用されたのは研修用の管理者IDで、
正規のアクセス権限ではありません』
(庄屋か)
『ログインIDの所有者は庄屋賢治です』
(何を見た)
『インシデントレポートのタイトル。
メール断片。
閲覧時間から判断すると——すべて読んでいます』
優作は手を止めなかった。
包丁の音だけが、厨房に響いた。
(黒塗りのレポートと、メールの断片だけで、あいつはどこまで辿り着いた)
『……判断材料が、まだ足りません』ARKが「足りません」と言った。
優作は少し間を置いた。
(珍しいな、お前が判断できないのは)
『相手が何を考えているか、
データだけでは読めない場合があります』
(人間だからか)
『……はい』
優作は包丁を置いた。
カウンターの方を、一瞬だけ見た。
庄屋がコーヒーを飲んでいた。
こちらを見ていた。
目が合った。
庄屋は軽く片手を上げた。
「おはようっす」
「おはようございます」
優作は答えて、また仕込みに戻った。
それだけだった。
しかし今朝の「おはようっす」は、
昨日のそれとは、重さが違った。
二人とも、それを知っていた。




