第四章 第九幕 坂本、再び
坂本一馬から、折り返しの電話が来たのは翌日だった。
「……片桐さん。」
「はい。」
「トヨトミが、動いているんですか。」
「はい。」
「本当に。」
「はい。」
しばらく、間があった。「……会いましょう。」
「はい。」
「高知に来てもらえますか。」
「はい。」
「遠いですが。」
「構いません。」
「……現場を、見てほしいんです。」
「はい。」
「数字より、実物を見てから話したい。」
優作は少し間を置いた。「……分かりました。」
「あのサメ、まだいますよ。」
「そうですか。」
「名前、つけました。」
優作は少し間を置いた。「……何という名前ですか?」
「龍馬です。」
優作は少し間を置いた。「……そうですか。」
「おかしいですか?」
「いいえ。」
電話が、切れた。
――――――
高知県。室戸市。
廃校の校庭に、軽バンが止まった。
庄屋が降りた。「……また来ましたね。」
「ああ。」
「遠すぎですよ、高知県の室戸市は。」
「また言っている。」
「だって遠いんですもん。」
優作は黙って歩いた。
――――――
プールに近づいた。
水が、青く澄んでいた。ハンマーヘッドシャークが、ゆっくりと泳いでいた。
庄屋が「龍馬ですか?」と呟いた。
「そうかもな。」
「似合ってるっすね。」
「そうか?」
「なんか、自由そうで。」
「そうだな。」
後ろから、足音が聞こえた。
坂本一馬が歩いてきた。地味なスーツ。目が、細かった。でも——二年前より、少し顔が変わっていた。疲れていた。でも——生きていた。
「……片桐さん。」
「はい。」
「また来てくれましたね。」
「はい。」
「村上さんは、元気ですか?」
「元気です。」
坂本は少し笑った。「……そうですか、良かったです。」
――――――
プールの縁に、三人で立った。
龍馬が、ゆっくりと泳いでいた。
坂本は龍馬を見たまま言った。「……片桐さん。」
「はい」
「遠くまで来てもらったのは、理由があります。」
「はい。」
「数字は、東京でも話せます」「……でも——これは、ここに来なければ分からない。」
坂本は廃校の校舎を見た。「陸上養殖は、軌道に乗っています。」
「はい。」
「施設は動いているんです。」
「はい。」
「でも——」坂本は静かに言った。「地元の人間が、働いていません。」
優作は少し間を置いた。「……外から来た人間が、運営しているんですか?」
「はい。」
「地元の若者は?」
「いません。」「……都会に出ました。戻ってきません。」
坂本は校庭を見た。雑草が生えていた。「……子供の声が、戻って来てないんです。」
「はい。」
「陸上養殖が成功しても——」坂本は静かに言った。「人が戻らなければ、この町は死んでいきます。」
沈黙。
龍馬が、プールを泳いでいた。
優作は少し間を置いた。「……給料を、都会と同水準にすれば、戻ります。」
坂本は優作を見た。「……できますか?」
「ARKが効率化すれば、できます。」
「根拠は?」
「暁商事の農家が、二年前より三割収益が上がっています。」「……仕組みを作れば、給料は出ます。」
坂本は少し間を置いた。「……それが、できれば。」
「はい。」
「人は、戻ります。」「帰りたい人間は、たくさんいます。」優作は静かに言った。「帰れない理由が、あるだけです。」
坂本は校庭を見た。長い間、見た。「……その仕組みを、作るんですか?」
「はい。」
「自動運転の物流と、合わせて。」
「はい。」「……物流が変われば、遠くまで届く。届けば、売れる。売れれば、給料が出る。給料が出るなら——」
「人が、戻る。」坂本が続けた。
優作は頷いた。「……それだけです。」
「……自動運転の法整備を動かしたい。」坂本は続けた。「物流が変われば、過疎地域にも荷物が届く。届くようになれば、人が戻るかもしれない。戻れば——」「……この町に、また声が戻るかもしれない。」
坂本は優作を見た。「……これが、私が動きたい理由です。」
「数字じゃないですね。」
「数字じゃないです」坂本は静かに言った。「この景色を見てから、話をしてほしかった。」
優作は廃校を見た。校舎。校庭。プール。龍馬。
「……分かりました。」優作は静かに言った。「一緒にやりましょう。」
――――――
職員室だった場所に、三人で座った。
坂本が口を開いた。「単刀直入に聞かせてください。」
「どうぞ。」
「自動運転の保険会社を、作るんですか。」
「はい。」
「トヨトミと、東明と、暁商事で?」
「はい。」
「ホライズンテクノロジーの技術を使って?」
「はい。」
坂本は少し間を置いた。「……法整備が、必要ですね。」
「はい。」
「自動運転の事故における責任の所在。保険設計の基準。AIによるリスク計算の法的な有効性——」坂本は静かに言った。「全部、今の法律では対応できていません。」
「そうですね。」
「時間がかかります。」
「はい。」
「それでも、やりますか?」
「やります。」
坂本は窓の外を見た。プールが見えた。龍馬が、ゆっくりと泳いでいた。「……一つだけ、聞いていいですか?」
「どうぞ。」
「なぜ、トヨトミが動いたんですか?」
優作は少し間を置いた。「工場を、止めたくないからです。」
「それだけですか?」
「それだけです。」
「トヨトミほどの会社が、それだけで動きますか?」
「単純な理由で、人間は動きます。」
坂本は優作を見た。長い間、見た。「……片桐さん。」
「はい」
「あなたは、どこまで考えていますか?」
優作は少し間を置いた。「日本の物流が変われば——農家の野菜が、もっと遠くまで届きます。村上さんの魚が、もっと多くの人間に届きます。」「……腹を空かせたガキが、減ります。要は、供給能力の話なんです。」
坂本は窓の外を見た。しばらく、龍馬を見ていた。「……龍馬は。」坂本は静かに言った。「不器用だったと言いました。」
「はい。」
「でも——」「……届けようとした。この国を、次の時代に。」
優作は何も言わなかった。
坂本は立ち上がった。「……動きます。」
「ありがとうございます。」
「礼はいい。」坂本は静かに言った。「ただし——」「……時間をください。半年。」
「はい。」
「その間に、根回しをします。反対する人間が、必ずいます。」
「そうでしょうね。」
「それでも、やりますか?」
「はい。」
坂本は優作を見た。「……なぜ、そんなに迷わないんですか?」
優作は少し間を置いた。「迷っています。」
「そうは見えません」
「迷っても——」「……動く方が、迷わないより早いからです。」
坂本は少し間を置いた。それから、小さく笑った。「……龍馬みたいなことを言いますね。」
「そうですか?」
「褒めてます。」
――――――
帰り際。プールの前を通った。
龍馬が、悠然と泳いでいた。
庄屋が言った。「……坂本さん、半年で動けますかね?」
「さあ。」
「また、さあですか?」庄屋は苦笑した。
「動いてみなければ、分からない。」
「でも——」庄屋は龍馬を見た。「龍馬って名前をつける人間が、動かないわけがないですよ。」
優作は少し間を置いた。「……そうだな。」
軽バンが、走り出した。
高知の海が、窓の外に広がっていた。




