第四章 第四幕 村上と新田
長崎から、村上雄二が来た。
東京郊外の工場の前に、レンタカーが止まった。村上が降りてきた。日焼けした顔。作業着。長崎から来たのに、まるで近所から来たような顔をしていた。
庄屋が出迎えた。「……遠かったですね」
「お前、またそれを言うのか」
「だって遠いじゃないですか」
「うるさい」
村上は工場を見た。「……ここか」
「はい」
「工場だな」
「元はプレス工場です」
「魚臭くない」
「まだ、うまく育っていないので」
村上は少し間を置いた。「……正直な男だ」
――――――
中に入った。
新田が、水槽の前に立っていた。モニターを見ていた。庄屋たちが入ってきても、すぐには振り返らなかった。
「……新田さん」庄屋が声をかけた。
新田が振り返った。村上を見た。「……村上さんですか」
「そうだ」
「長崎から、わざわざ」
「片桐に頼まれた」
新田は村上を見た。村上は水槽を見た。
しばらく、誰も何も言わなかった。
村上が口を開いた。「……タイか」
「はい」
「動きが鈍い」
「はい」
「餌をやってみろ」
「……片桐さんも、同じことを言われました。」
「いいからやってみろ」
新田は壁のパネルを操作した。餌が、水面に落ちた。タイが、ゆっくり近づいた。
村上は水槽を見た。腕を組んだ。しばらく、見ていた。「……水が、きれいすぎる」
新田は少し間を置いた。「……きれいすぎる?どういう意味ですか」
「海の水は、こんなにきれいじゃない。プランクトンがいる。微生物がいる。死んだ魚の欠片が漂っている。汚いから、魚は元気に育つ」
新田はモニターを見た。「……水質は、最適化しています。不純物は除去しています」「ふん」村上は鼻を鳴らした。「だから、育たない」
新田は少し間を置いた。「……データでは、きれいな水の方が病気になりにくいと出ています」
「データが間違っている」
「根拠は何ですか」
村上は新田を見た。「……三十年だ」「三十年」「俺が魚を育ててきた経験だ。それが根拠だ」
新田は少し間を置いた。「……それは、データじゃない」
「そうだ。経験だ」
「経験は、再現できません」
「お前のデータでは、魚を育てられていない」
沈黙。
水槽の水が、静かに揺れていた。
――――――
庄屋が口を開こうとした。優作が、小さく首を振った。
庄屋は黙った。
新田は村上を見た。「……では、聞かせてください」
「何をだ」
「村上さんの経験を、数字にできますか」
村上は少し間を置いた。「……どういう意味だ」
「村上さんが三十年で積み上げたものを、データにしたい。水質の微妙な変化、魚の動き、季節ごとの違い——全部、数字に変換したい」
村上は新田を見た。「……なぜだ」
「データにできれば、再現できます。村上さんがいなくても、どこでも同じ環境が作れる」
村上は少し間を置いた。「……俺がいらなくなるということか」
「違います」新田は静かに言った。「村上さんにしか気づけないことが、まだあるはずです。データにできないものが、まだあるはずです。俺には、それが分からない」「……だから、教えてほしい」
村上は新田を見た。長い間、見た。
「……生意気な奴だ」
「よく言われます」
「褒めていない」
「……分かっています」
村上は水槽に向き直った。「もう一度、餌をやれ」
「はい」
「今度は、量を半分にしろ」
「データでは、この量が最適です」
「いいから、やれ」
新田は少し間を置いた。パネルを操作した。餌が、少量、水面に落ちた。
タイが、動いた。さっきより、速かった。
新田は画面を見た。「……〇・六メートルです」
「腹が減った方が、魚は動く」
「でも、成長速度が——」
「最初の一週間だけでいい。その後は戻せ」
「なぜですか」
「腹が減った記憶が、魚を強くする」
新田はモニターを見た。しばらく、見ていた。「……それは、どこかに論文がありますか」
「ふん」村上は鼻を鳴らした。「ない」
「なぜ分かるんですか」
「長崎の海で、見てきたからだ」
新田は少し間を置いた。「……計測させてください」
「好きにしろ」
「毎日、来てもらえますか」
「長崎から、毎日来られるか」
「……オンラインでも」
「機械は苦手だ」
「教えます」
「お前が教えるのか」
「はい」
村上は新田を見た。「……生意気だと言った」
「はい」
「だが——」「お前の努力は嫌いじゃない」
新田は少し間を置いた。目が、わずかに赤くなっていた。「……泣いてません」
「見ていない」村上が言った。
――――――
帰り際。村上が工場を出た。庄屋が見送った。
「……村上さん」
「なんだ」
「どうでしたか」
村上は少し間を置いた。「面白い男だ」
「新田さんが、ですか」
「ああ」
「ぶつかりましたね」
「ぶつかった方がいい」
「優作さんも、同じことを言ってました」
村上は庄屋を見た。「……片桐は、なぜ呼ばなかった」
「優作さんは、見ていましたよ」
「どこにいた」
庄屋は工場の奥を見た。「……ずっと、あそこにいました」
村上は工場の奥を見た。薄暗い隅に、優作が立っていた。モニターを見ていた。
「……本当に変な男だな」村上が言った。
「そうですよね」庄屋が答えた。
村上は鼻を鳴らした。レンタカーに乗り込んだ。窓を開けた。「……庄屋」
「はい」
「あの男の水槽、半年で変わるぞ」
「根拠は」
「俺が、教えるからだ」
レンタカーが、走り出した。
――――――
工場の中に戻った。
新田が、水槽の前に立っていた。タイを見ていた。
「……新田さん」庄屋が声をかけた。
「はい」
「どうでしたか」
新田は少し間を置いた。「……村上さんの言っていることは、データで証明できると思います」
「証明できたら、どうするんですか」
新田は水槽を見たまま言った。「世界中に、広められます」「……村上さんの三十年を、世界中の養殖業者が使えるようになります」
庄屋は少し間を置いた。「……暁水産に、来てもらえますか」
新田は振り返った。「……条件があります」
「聞かせてください」
「村上さんのデータを、俺に触らせてください」
「村上さんに、聞いてみます」
「もう一つ」
「はい」
「俺のシステムを、暁水産の全施設に入れてください」
庄屋は少し間を置いた。「……それは、優作さんに聞いてみます」
「聞いてみます、ということは——」
「前向きに検討します」
新田は少し間を置いた。「……よろしくお願いします」深く、頭を下げた。庄屋も、頭を下げた。
――――――
夜。軽バンで、工業団地を出た。
「……優作さん」庄屋が言った。
「なんだ」
「ずっと、隅で見てたんですね」
「ああ」
「なぜ、前に出なかったんですか」
優作は少し間を置いた。「必要なかった」
「でも——」
「あの二人に必要なのは、俺じゃない」
「……お互いだ」
庄屋は前を向いたまま、少し間を置いた。「……村上さんの三十年を、世界中に広める——新田さん、本気でそう言ってました」
「ああ」
「できますか」
「ARK」
『はい』
「新田のシステムと村上のデータが合わさった時の、試算を出してくれ」
ARKは少し間を置いた。『はい。ただし——』
「知ってる」優作は静かに言った。「時間がかかる」
『いいえ』『……それだけではありません』
「何だ」
『村上さんの経験を、データにできるかどうか——それは、村上さんが決めることです』
優作は少し間を置いた。「……そうだったな」
夜の工業団地が、窓の外に流れていた。




