第三章 第十幕 高知
高知県。室戸市。
海沿いの道を、軽バンが走っていた。
助手席に、村上雄二が座っていた。窓の外を見ていた。海が見えた。
「……長崎と、海の色が違うな」村上が言った。
「そうですか」優作が答えた。
「こっちの方が、少し青い」
「黒潮ですね」
「詳しいな」
「調べました」
「……気持ち悪いな」
「すみません」
後部座席で、庄屋が地図を見ていた。「……もうすぐです」
「遠かったな」村上が言った。
「長崎から高知は遠いですよね」庄屋が言った。
「お前、さっきから同じことばかりを言っている」
「だって本当に遠いですもん」
優作は黙って運転した。
――――――
目的地は、山の中腹にある、古い小学校だった。
校舎は残っている。校庭も残っている。だが——子供の声はなかった。
軽バンを降りると、潮の匂いがした。海が近いからだった。
村上は校舎を見た。「……廃校か」
「はい」
「何年前に閉まった」
「十二年前です」
村上は少し間を置いた。「子供が、いなくなったのか」
「はい」
村上は校庭を見た。雑草が生えていた。でも——プールだけは、きれいだった。「……プールが、生きているな」
「はい」
――――――
プールに近づいた。水が、青く澄んでいた。その中を、大きな影が泳いでいた。たくさんの影が、プールを埋め尽くすように泳いでいた。
村上の体が、止まった。「……サメだ」低い声だった。
「はい。ハンマーヘッドシャークです」
村上はプールの縁に立った。サメが、ゆっくりと泳いでいる。悠然と。静かに。
庄屋が小声で優作に言った。「……大丈夫なんですか」
優作も小声で返した。「待て」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて村上が言った。「……こいつらに、やられた」誰も答えなかった。
「網を食い破られた。魚が逃げた。全滅した」「……憎かった」
波の音が、遠くから聞こえてくる。
「でも——」村上は続けた。「こいつらは、腹が減っていただけだ」
優作は何も言わなかった。
「海で生きているだけだ。俺たちの網を、邪魔に思っていただけだ」
村上はプールの縁にしゃがんだ。サメが、村上の前を通り過ぎた。「……強い魚だな」小さく言った。「こんな狭いプールで、まだ泳いでいる」
――――――
後ろから、足音が聞こえた。振り返ると、一人の男が立っていた。
六十代。地味なスーツ。目が、細かった。
「……片桐さんですか」
「はい」
「坂本です」
坂本一馬は、優作と握手した。それから村上を見た。「……村上さんですね」
「そうだが」
「話は聞いています」
「誰から聞いた」村上は立ち上がった。
「高知の漁協から」
坂本を見た。「……政治家か」
「はい」
「俺は政治家が、嫌いだ」
「よく言われます」
庄屋が小声で優作に言った。「……幸先悪いですね」
優作も小声で返した。「黙ってろ」
――――――
四人で、校舎の中に入った。職員室だった場所に、テーブルと椅子があった。地元の人間が用意していた。お茶も出てきた。
坂本が口を開いた。「村上さん、単刀直入に聞かせてください」
「なんだ」
「養殖を、続けたいですか」
村上は少し間を置いた。「……続けたい。だから長崎から来た」
「理由を聞かせてもらえますか」
村上は坂本を見た。「話す必要があるのか」
「ありません」坂本は静かに言った。「でも——聞きたい」
村上は少し間を置いた。「……どうしてだ」「私も、海が好きだからです」
村上は坂本を見た。品定めをするような目だった。「……高知の人間か」
「はい」
「海で育ったか」
「はい。子供の頃、毎日泳いでいました」
「今は」
「泳いでいません」
「なぜだ」
「……忙しくて」
「ふん」村上は鼻を鳴らした。「政治家になったからか」
「そうかもしれません」
沈黙。「……俺は」村上は続けた。「魚を育てたかった。ただそれだけだ」
「海でやる必要がありますか」
「陸でもできるなら——」「……でも、金がかかる」
坂本は少し間を置いた。「廃校を、使ってみませんか」「全国で廃校が増えてきています。」
村上はプールの方を見た。窓から、サメが泳いでいるのが見えた。「……プールで、魚を育てるのか」
「プールだけじゃない。校舎も使えます。水槽を入れられる。温度管理もできる」「電気代がかかる」
「屋根に太陽光パネルを載せます」
「費用は」
「補助金の枠組みを作ります」坂本は静かに言った。「私が、動きます」
村上は坂本を見た。「……本気なのか」
「はい」
「政治家の本気は、信用できん」
「そうですね」坂本は頷いた。「だから——」「……まず、ここを見てください」
坂本は立ち上がった。校舎の廊下を歩き始めた。四人で、廊下を歩いた。
教室が並んでいた。黒板が残っていた。チョークの跡が、まだ残っていた。
坂本は一つの教室の前で止まった。引き戸を開けた。小さな机が、並んでいた。埃をかぶっていた。でも——窓から、海が見えた。
「……ここで、子供たちが勉強していた」坂本は静かに言った。「十二年前まで」
誰も、何も言わなかった。
「過疎化で、子供がいなくなった。学校が閉まった。町が、少しずつ静かになっていった」
坂本は窓の外を見た。海が見えた。「……私は、この町の出身じゃない。でも——日本中に、同じような町がある」「……この場所に、また命が育つなら——」
坂本は振り返った。村上を見た。「……私は、本物の政治家になりたい」
村上は坂本を見た。長い間、見た。「……さっきと、言っていることが違うな」「さっきは、建前でした」「今は」「本音です」
村上は少し間を置いた。「……正直な政治家だ」
「あまり、言われ慣れていません」
「褒めている」
坂本は少し間を置いた。「……ありがとうございます」
――――――
廊下を戻りながら、村上が優作に小声で言った。「……あの政治家、本物か」
優作も小声で返した。「まだ分かりません」
「正直だな」
「本物かどうかは——これから決まります」
村上は少し間を置いた。「……俺も、同じだったな」
「はい」
「最初は、信用していなかった」
「知っています」
村上は窓の外を見た。プールに、サメが泳いでいた。「……あのサメ、名前はあるのか」
「さあ」
「……つけてやりたいな」
庄屋が小声で優作に言った。「……村上さん、サメと和解したのかな」
優作も小声で返した。「ああ」
「さっきまで憎いって言ってたのに」
「海の男だからな」
――――――
帰り際。坂本は村上に名刺を渡した。村上は受け取り、ポケットにしまった。
「……坂本さん」
村上は坂本を見た。「……龍馬は、好きか」
坂本は少し間を置いた。「……好きです」
「なぜだ」
「不器用だったからです」
村上は鼻を鳴らした。「……そうか」「……俺も、好きだ」
二人は少し、笑った。
――――――
軽バンに乗り込んだ。坂本が窓の外から言った。「片桐さん」
「はい」
「また、連絡します」
「はい」
「……見させてもらいます」「養殖、成功したら——」坂本は少し間を置いた。「動きます」
優作は頷いた。「待っています」
軽バンが、走り出した。バックミラーの中で、坂本が校舎を見ていた。長い間、見ていた。
――――――
庄屋が言った。「……優作さん」
「なんだ」
「坂本さん、本物ですかね」
「さあ」
「さあって」
「見ていれば、分かる」
村上が言った。「……龍馬を好きな政治家が、本物じゃないわけがない」
庄屋は少し間を置いた。「……それ、根拠になりますか」
「なる」村上は断言した。
優作は少しだけ、笑った。
高知の海が、窓の外に広がっていた。




