第三章 第四幕 時代の波
岩手県。山間の農家。
凛は一人で、農道を歩いていた。手に、紙袋を持っていた。和菓子だった。
農家の前に立った。インターホンはなかった。表札に「佐藤」と書いてあった。
「……すみません」
しばらく、間があった。障子が、数センチ開いた。老人の目が、隙間から見えた。
「……また来たか」「はい」凛は頭を下げた。「片桐の代わりに来ました」
「帰れと言った」「はい。聞きました」「なら帰れ」
「少しだけ、話を聞かせてもらえませんか」凛は紙袋を持ち上げた。「お茶だけでも」
障子が、閉まりかけた。止まった。しばらく、沈黙が続いた。だがやがて、障子が開いた。「……上がれ」
――――――
囲炉裏のある部屋だった。古い農具が、壁に掛かっていた。
老人は佐藤義男といった。七十四歳。妻は十年前に亡くなっていた。
凛はお茶を受け取った。和菓子を出した。老人は見たが、手を伸ばさなかった。
「……何が聞きたい」「昔のことを、聞かせてもらえますか」「昔?」「農業を、続けてきた話を」
老人は凛を見た。品定めをするような目だった。「……都会の人間に、話しても分からん」
「分からないかもしれません」凛は静かに言った。「でも——聞きたいです。」
――――――
老人は、ゆっくりと話し始めた。
三十年前。米の値段が、少しずつ下がり始めた。外国産が入ってきた。どんなに丁寧に作っても、値段で負けた。
「農協も、必死だった」老人は静かに言った。「色々と手を打ってくれた。設備投資の話も、農協が持ってきた」
「……投資したんですか」「した。米以外も作る為にビニールハウスを建てた。新しい農機具も買った」「……農協の言う通りにした。でも——時代の流れには、勝てなかった」
「農協の判断が、間違っていたんですか」
老人は少し間を置いた。「いや……間違いじゃなかった。あの頃は、みんながそうしていた。農協も、農家も、一緒に考えていた」「……ただ——時代が、速すぎた」
凛は何も言わなかった。ただ、聞いた。
「借金だけが残った。農協も申し訳なさそうにしていた。でも、どうにもならなかった」
老人は囲炉裏を見た。「文句を言う気にもなれなかった。みんな、同じように苦しんでいたから」
「……借金は」「十五年かけて、返した」老人は静かに言った。「女房と二人で、返した」
沈黙。「女房が死んだのは——返し終わった翌年だった」
凛は何も言えなかった。
「……だから」老人は続けた。「もう、誰の話も聞かんことにした。時代の波には、もう振り回されたくない」
凛はお茶を一口飲んだ。「……そうですね」
老人が顔を上げた。「……否定しないのか」「できません。佐藤さんが経験したことは、本当のことだから」
老人は凛を見た。「私たちも——うまくいかないかもしれない」凛は続けた。「それは、正直に言います」
老人は少し間を置いた。「……正直な娘だ」
「でも——」「……あなたの農地を、荒らしたくない」
老人は答えなかった。「今日は、それだけ言いに来ました」
凛は立ち上がった。頭を下げた。「ありがとうございました。また来ます」
「……また来るのか」「はい」
老人は答えなかった。ただ、凛の背中を見ていた。
――――――
二週間後。凛と誠二は、連れ立って農道を歩いていた。
「……緊張しますね」誠二が言った。「そんなに怖い人ですか」「怖くないです」「でも、二回も断られているんでしょう」「はい」「なのに、また行くんですか」「はい」
誠二は少し間を置いた。「……凛さん、強いですね」「そうですか?」「俺には、できないです」「できますよ」「なぜ言い切れるんですか」
凛は少し笑った。「誠二さんには、私にない言葉があるから」
――――――
農家の前に立った。凛が声をかけた。「佐藤さん、また来ました」
しばらく、間があった。障子が開いた。老人が、凛を見た。それから、誠二を見た。「……誰だ」
「田中誠二と申します」誠二は頭を下げた。「山形から来ました」
「山形……」老人は少し間を置いた。「……農家か」「父が農家です。私は都会に出ました」
老人は誠二を見た。「……都会で、何をしている」
「会社員です。でも——」誠二は少し間を置いた。「先月まで、父の田んぼをどうするか、ずっと悩んでいました」
老人は何も言わなかった。「父は一人で耕しています。後継者はいない。俺は帰れない」誠二は続けた。「……佐藤さんと、同じだと思います」
老人の目が、わずかに動いた。「俺も、最初は断ったんです。」「……断った?」
誠二は静かに言った。「片桐さんの話を、信用できなかった。どうせ都会の人間の都合だと思った」
老人は誠二を見た。「でも——」「……父の田んぼが、続くなら。それだけでよかった」
沈黙。春の風が、農道を抜けていく。
「……今は、信用しているのか」老人が聞いた。「完全には、していません」誠二は正直に言った。「でも——父の田んぼが、続いています。それだけは、本当です」
老人は、誠二を長い間、見た。それから——「上がれ」と言った。
凛は小さく息を吐いた。誠二は凛を見た。凛は小さく頷いた。
――――――
三週間後。優作が一人で、農道を歩いていた。
農家の前に立った。インターホンを押す前に——障子が開いた。老人が立っていた。
「……片桐か」「はい」「待っていた」
優作は少し間を置いた。「……そうですか」
老人は優作を見た。「あの娘と、あの若者——お前が連れてきたのか」「はい」「……なぜ、最初から連れてこなかった」
「最初は、俺が来るべきだと思っていました」「なぜ変えた」「俺より、適切な人間がいたからです」
老人は少し間を置いた。「……正直な男だ」「あの娘に言われました」
老人は鼻を鳴らした。「上がれ」
――――――
囲炉裏の前に、二人で座った。老人はお茶を出した。それから、和菓子を出した。凛が置いていったものだった。「……これは」「取っておいた」
「佐藤さん」「なんだ」「一つ、聞いていいですか」「なんだ」
「農協と、今も付き合いはありますか」「……ある。ずっとある」「関係は」「悪くない。あの頃のことを、今でも申し訳なさそうにしている担当者がいる」
優作は頷いた。「その担当者に、会わせてもらえませんか」
老人が顔を上げた。「……なぜだ」「農協と、一緒にやりたいからです」
老人は少し間を置いた。「……農協を、使うのか」「農協に、助けてもらいたいんです」「……農協は全国にネットワークを持っている。俺たちだけでは、届かない場所がある」
老人は優作を見た。長い間、見た。「……農協を悪者にしないのか?」「はい。農協がなければ、日本の農業はもっと早く壊れていたでしょう。」
老人は囲炉裏を見た。しばらく、火を見ていた。「……女房に、見せてやりたかった」小さく言った。「田んぼが続くところを」
優作は何も言わなかった。
「……やってみろ」
老人は静かに言った。「ただし——」「……農協の担当者も、一緒に話を聞かせろ」
優作は少し間を置いた。「……ありがとうございます」「礼はいい」
老人は和菓子を一つ、手に取った。一口食べた。「……うまいな」「凛が選びました」「……あの娘は、いい娘だ」「はい」
老人は囲炉裏を見た。「……女房が生きていたら、怒っただろうな」「なぜですか」「決めるのが遅いと」
「深く考えてくれました。」優作は少しだけ笑った。
老人も、少しだけ笑った。




