第三章 第三幕 息子
東京。渋谷のオフィス街。
ガラス張りのビルが並んでいる。スーツの人間が、足早に歩いている。
優作は、一本の電話をかけた。
「……山形の田中農家の息子さんですか」
「そうですが、誰ですか」
「暁商事の片桐と申します。先日、ご両親にお会いしました」
少し間があった。「……ああ、農地の話ですか」
「はい」
「父から聞きました」
声が、少し固くなった。「……お断りします」
「まだ何も——」
「父が『考える』と言ったのは、あなたに気を遣っただけです。
うちの農地は、渡しません」
「渡せとは言っていません」
「証書にするのも同じことです」
優作は少し間を置いた。「……一度だけ、会っていただけますか」
「時間がありません」
「三十分だけです」
沈黙。「……なぜそこまでするんですか」
「田中さんの田んぼを、見たからです」
「……田んぼを?」
「きれいな田んぼでした。手入れが行き届いていた」
また、沈黙。「……三十分だけです」男は静かに言った。「それ以上は付き合えません」
――――――
指定された喫茶店は、渋谷の外れにあった。
田中誠二は、三十代半ばだった。スーツ。
きちんとしたネクタイ。都会で仕事をしている顔だった。
でも——目の下に、うっすら隈があった。
「片桐さん」
「はい」
「単刀直入に聞きます」
「どうぞ」
「なぜ、うちの農地なんですか。日本中に、同じような農家はあるでしょう」
「そうです」
「なぜうちに、二度も来るんですか」
優作は少し間を置いた。「……お父さんが、あなたの話をしていたからです」
誠二は少し目を細めた。「何を言っていましたか」
「息子が反対するだろう、と……」「でも——言い方が、誇らしそうでした」
誠二は黙った。コーヒーを一口飲んだ。
「……俺は、あの土地が嫌いじゃない」優作は何も言わなかった。
「嫌いじゃないから——手放したくない」
「手放しません」
「証書にしたら——」
「田中家の農地は、田中家のものです。証書はその証明です。手放すのではなく、一緒に耕す人間を増やすだけです」
誠二は少し間を置いた。「……俺が都会にいる間に、知らない人間が父の田んぼを耕すんですか」
「そうです」
「それが——嫌なんです」誠二は静かに言った。
「俺が帰れないから、誰かに任せる。そのうち、俺の知らない田んぼになる」
沈黙。喫茶店の外を、人が足早に通り過ぎていく。
「……田中さん」
「なんですか」
「お父さんの田んぼ、最後に行ったのはいつですか」
誠二は少し間を置いた。「……去年の盆です」
「どんな田んぼでしたか」
誠二は答えなかった。しばらく、コーヒーカップを見ていた。「……きれいでした」小さく言った。「親父が、一人で全部やってた」
「限界が来ています」
「分かってます」誠二の声が、わずかに変わった。「分かってるから——辛いんです」
優作は少し間を置いた。「田中さん」
「なんですか」
「一つだけ聞かせてください」
「……あの田んぼを、なくしたいですか」
誠二は顔を上げた。優作を見た。「……なくしたくない」
「なら——」
「でも」誠二は続けた。「俺には帰れない。帰ったところで、農業の知識もない。体力もない。親父の邪魔になるだけだ」
「帰らなくていいです」
誠二は少し間を置いた。「……どういう意味ですか」
「あなたはここで仕事をしていればいい。田んぼは、続きます」
「誰が耕すんですか」
「暁商事が手配します。農業の専門家を入れます。AIが最適な耕作計画を立てます。収益は、田中家の持ち分に応じて入ります」
「……本当に、土地は渡さなくていいんですか」
「渡しません。田中家の田んぼは、田中家のものです。ただ——」
「……一人で抱えなくていい」
誠二は、コーヒーカップを両手で持った。しばらく、何も言わなかった。
「……親父は、どんな顔をしていましたか」
「縁側で、田んぼを見ていました」
「それだけですか」
「それだけです。でも——」「……長い間、見ていました」
誠二は俯いた。しばらく、静かだった。「……一つだけ、条件があります」
「聞かせてください」
「年に一度——収穫の時期に、俺も参加させてください」
「もちろんです」
「農業を手伝いたいわけじゃない。ただ——」
誠二は窓の外を見た。渋谷の雑踏が、ガラス越しに見えた。「……田んぼを、見たい」
優作は少し間を置いた。「……田中さん」
「なんですか」
「お父さんに、電話してみてください」
「今すぐですか」
「今すぐです」
誠二は少し間を置いた。それから、スマホを取り出した。
番号を表示する。発信した。コール音が、二回鳴った。
「……親父」
「誠二か」
「うん」「……田んぼ、任せてみようと思う」
電話口の向こうで、しばらく間があった。それから、老人の声が聞こえた。「……そうか」
それだけだった。でも——その「そうか」の中に、三年分のものが詰まっていた。
誠二は電話を切った。目が、少し赤かった。「……泣いてません」
優作は何も言わなかった。
誠二は立ち上がった。「……片桐さん」
「はい」
「一つだけ言っていいですか」
「どうぞ」
「なぜ、こんなことをするんですか」誠二は優作を見た。「あなたに、何のメリットがあるんですか」
優作は少し間を置いた。「……腹を空かせたガキに、パンをいや、ご飯を届けたい」
誠二は少し間を置いた。「……意味が分からないですけど」
「そうですね」
誠二は少し笑った。「……分かりました。よろしくお願いします」
深く、頭を下げた。優作も、頭を下げた。
――――――
夜。優作はレンタカーの中で、ARKに繋いだ。
「……ARK」
『はい』
「田中家、一軒目だ」
『はい』
「残りは」
『四軒、まだ断っています』
「もう一度、行く」
『はい』『……ただし——』
「知ってる」「時間がかかる」
『はい』
「構わない」
優作はエンジンをかけた。東京の夜が、広がっていた。
「……ARK」
『はい』
「頼む」
ARKは少し間を置いた。『はい』『……ただし——』
「知ってる」優作は静かに言った。「全員に、会いに行く」
画面の幾何学模様が、静かに脈打った。




