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第4話:シュレッダーの横の遺言

閉店後の深夜。


ハッピー・スター・バーガーのバックヤード。


蛍光灯が一本、微妙に点滅している。


三週間前から里美に言っているが、


まだ替わっていない。


優作はモップを引きずりながら、


その灯りの下を何度も往復した。


「先に上がるわ。戸締まり、頼んだわよ」


里美が帰ったのは、十一時を少し過ぎた頃だった。


いつもより少し、疲れた顔だった。


一人になったバックヤードは、静かだった。


フライヤーの油が冷えていく音。


冷蔵庫のモーター。それだけ。


優作がロッカー付近の床を拭いていると、


一冊のバインダーが落ちているのに気づいた。


里美のものだ。


急いで帰ったから、気づかなかったのだろう。


拾い上げた拍子に、中身が床に散らばった。


優作はしゃがんで、紙を集め始めた。


そして、一枚に目が止まった。


督促状ではない。納品書でもない。


殴り書きのような、


青いボールペンの文字が、


余白を埋め尽くしている。その紙の上部に、


優作が忘れたくても忘れられないフォントとロゴが、


印字されていた。


『物流効率化に伴う、取引ラインの即時停止について』


指が、冷たくなった。


ギガ・リンクのレターヘッド。


優作は、紙を持ったまま動けなかった。


余白の書き込みを、目が勝手に追う。


里美の筆跡だ。震えている。


「なぜ?」 「あと10分あれば納品できたのに」 「


GLロジスティクスとは何? ギガ・リンクの子会社?」


優作の手が、他の資料にも伸びていた。


意識してやったわけではなかった。


かつて戦略コンサルタントとして十年間磨き上げた脳が、


勝手に動いていた。資料の順番を並べ替え、


数字の流れを追い、フロント企業の名前を拾い上げる。


(……この中抜きのマージン構造。

……コードネーム「GL」。……ARKが言っていた「一件」が、


ここだったのか)


三年前、深夜のコンピュータールームで見た数字の動きと、


同じだった。


搾取のアルゴリズムは、変わっていなかった。


ただ、今度の獲物は、


アフリカの鉱山の子供たちではなく


——この店の、あの女性の、父親だった。


背後でドアが開いた。


「……何してるの、あんた」


振り向けなかった。


声の質が、いつもと違った。


怒りではなかった。怒りの方がまだよかった。


それは——自分の最も惨めな場所を、


見知らぬ他人に踏み込まれた人間の声だった。


「……あ、いや。落ちていたので。つい、すみません」


釈明しながら立ち上がろうとした優作の手から、


里美がバインダーをひったくった。床の紙を、


震える指でかき集める。一枚一枚、素早く、乱暴に。


優作は何も言えなかった。


里美は一度も優作の顔を見なかった。


資料を胸に抱えると、


踵を返してバックヤードの扉を押し開け、夜の外へ消えた。


扉が閉まる音が、静かに響いた。

――――――


優作は、しばらく床を見ていた。


指先に、まだあの紙の感触が残っている。


「あと10分あれば納品できたのに」


里美が書いた言葉と、


五人の少年たちのことが、優作の中で静かに重なった。


十分。また、十分だ。


この世界は、


十分という単位で人間の人生を削り取っていく。


そしてその十分を奪うコードを、かつて自分が書いた。


優作はモップを壁に立てかけ、耳元のインイヤーに触れた。


声には出さなかった。思っただけだった。


(ARK。聞こえてたな)


『はい、総統』


ARKの声が、静かに耳の奥に届く。


『防犯カメラからスキャンしたバインダーの全データ、


復元完了しました。


GLロジスティクスと、


ギガ・リンク本体のオフショア口座との紐付けを開始しています。


関連するフロント企業は現在、十七社。中抜きの総額は——』


(いい。数字はあとで聞く)


優作はロッカーを開けた。


三年間、一度も手放さなかったノートPCを取り出す。


(ARK。あいつらに教えてやれ。


……世界には、どんなに計算しても弾き出せない


「十分」という重みがあることを)


『承認しました』


『ギガ・リンク「資産再編ユニット」のリーダー個人デバイスへのアクセス、


完了。


現在、彼らが祝杯を挙げているレストランのBGMシステムにも接続できますが


——優作、何かリクエストはありますか』


優作はノートPCを開きながら、少しだけ考えた。


「……弔いの曲にしろ。イギリス文学に相応しい、静かなやつ」


『了解です』


深夜のハッピー・スター・バーガーの駐車場。


ノートPCから漏れる青い光が、優作の無精髭を照らした。


その夜、


東京の摩天楼でシャンパングラスを傾けていた


GLロジスティクスの幹部七名のスマートフォンに、


ほぼ同時刻、一通の通知が届いた。


彼らが築き上げた資金構造は、


「十分の遅延」が連鎖的に発生したと判定され——


すべてのポジションが、強制清算に入った。


レストランのBGMが、静かに切り替わった。


エルガーの「エニグマ変奏曲」。葬送ではないが、


どこか別れを告げるような曲だ。幹部の一人が、


スマートフォンを見たまま、シャンパングラスを傾けそこねた。


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