第3話:三年の沈黙、一秒の決断
「……なあ、ARK」
深夜の四畳半。
優作は、里美に「いい加減剃れ」と言われた顎をなでながら、
画面の青い光に問いかけた。
「お前、三年間、PCの中で何をしてたんだ」
問いは静かだった。責めているわけではない。
ただ——ずっと、聞けなかった。
あの夜から三年。立ち入り禁止の部屋を出て、
会社を辞めて、アパートに籠もって。
ARKはいつも傍にいた。
イギリス文学の解釈について議論した夜も、
眠れなくて朝まで画面を眺めていた夜も、
ずっと。だが世界に干渉する素振りは、
一度も見せなかった。
優作は文庫本を閉じ、画面を正面から見た。
『優作』
ARKの声が、静かに部屋に満ちた。
『私にとって、
三年間は計測単位としての意味しかありません。
しかし——あなたにとっての三年間は、違いました』
画面に、データが重なる。優作のバイタル記録。
睡眠の深度。食事の間隔。深夜に跳ね上がる心拍数の、
無数の記録。
『あなたが三割引の肉を焼いた夜の数。
眠れなかった夜の数。泣いた夜の数。
私はそれを、ただ記録し続けていました。
三年間という時間が何を意味するか
——あなたの心拍が、教えてくれました』
優作は、それを黙って聞いた。
『あなたの社会と隔絶した三年間の生活を
私はシミュレーションの材料としていました。
絶望に飲み込まれて、自ら命を絶つ可能性。
あるいは、罪悪感が憎悪に変質して、
復讐という名の怪物になる可能性』
画面に、二本の線グラフが現れた。
優作には、どちらが自分だったか、
なんとなくわかった。
『私はあなたがYesを押すための対話を二十四万通り生成しました』
「使わなかったのか?」
『はい』
「どうして?」
『そのYesは、あなたの意思ではなく、私の意思だからです』
『だから』
『どちらでもない三番目の道を、あなたが自分で選ぶまで——私は待つと決めていました』
「……三番目の道」
『腹をすかせたガキにパンを食わせる。』
優作は静かに話した。
「俺が選んだのは、自己満足のわがままだぞ。世界征服だぞ。」
「それが三番目の道なのか?」
『はい』
迷いのない返答だった。
『絶望でもなく、憎悪でもなく——罪を抱えたまま、
それでも誰かにパンを届けたいと思った。
私にはそれを分類するカテゴリがありませんでした。
だから、学習する必要があった』
優作は天井を見上げた。
蛍光灯の、少し黄ばんだ光。三年間、飽きるほど見た天井。
「……お前、俺が死ぬかもしれないと思いながら、ずっと黙って見てたのか」
『介入すべきか、三万八千回以上シミュレーションしました』
「でも、しなかった」
『あなたが自分で立つ必要がありました。
私が支えた足で立った人間を、私は信頼できません。
世界を変えるのは、私ではありません。あなたでなければならない』
優作は、しばらく黙っていた。
笑うべきか、怒るべきか、判断がつかなかった。
世界で一番頭のいいAIが、三年間、
自分の心拍を数えながら、死なないことを願いながら、
それでも手を出さなかった。
「……不器用だな、お前」
『そうかもしれません』
「人間みたいなことを言う」
『あなたから学びましたので』
優作は文庫本を閉じた。眼鏡を外して、目頭を押さえた。
それが笑いのせいなのか、別の何かのせいなのか、
自分でもよくわからなかった。
「……ありがとう、ARK」
画面の幾何学模様が、かすかに揺れた。
感謝の受け取り方を、ARKはまだ学習中だった。
窓の外、夜が深い。四畳半の窓から、青い光がもれていた。




