第2話:時給一〇五〇円の支配者
世界を裏から操る「総統」の実体は、
その日も照り焼きソースの匂いが染み付いたエプロンを締め、
レジの前に立っていた。
「優作さん!
三番レジ、お客様お待たせしてるわよ!」
声の主は、
ハンバーガーチェーン「ハッピー・スター・バーガー」の店長代理、
里美。三十二歳。声量だけで新人を育てるタイプ。
優作は小走りでレジへ向かいながら、左耳のインイヤーに触れた。
『優作。ギガ・リンクが海外に隠匿していたオフショア口座
——総額二百四十億ドルの資産が滞留しています』
『当該資産の78%は、
不正な取引停止と中抜き構造によって形成されています』
『……再分配は即時実行可能です』
『なお——店内カメラ、十一時四十二分。
里美が発注データを確認中です』
「……待て」
優作の声は低かった。
「契約がない。これはまだ“支配じゃない”」
優作は一瞬だけ、目を伏せた。
「ルールを作る。そこからだ」
『承知しました。現時点での実行は、
あなたの統治原則と整合しません』
隣のレジで里美が振り返る。
「何が言った?」
「いえ」と優作は言った。「
ポテト、五番テーブルに上がりました」
里美は視線を客に戻しながら、
頭の隅に小さな引っかかりを覚えた。
――――――
引っかかりは、
その日の閉店間際に、もう少し大きくなった。
バックヤードで発注データを確認していた里美は、
ふと手が止まった。
今週の食材ロス率が、
先週より十二パーセント下がっていた。
おかしい。
レシピも仕入れ量も変えていない。
変えたことといえば——優作が入ったことだけだ。
里美は記憶を手繰った。
優作がフライヤーの温度を確認するとき、
指先が迷わない。
ラッシュ時に三つのレジを同時に見渡す目線の動かし方が、
研修中の新人のそれではない。クレームの客に対応するとき、
謝罪の言葉より先に「問題の核心」を静かに確認してから話す。
無精髭。くたびれたエプロン。時給一〇五〇円のフリーター。
だが、あの目だ。
何かを計算している目。しかもそれが、
ポテトの揚がり具合ではないことだけは、確かだった。
――――――
閉店作業を終えた優作が、
ロッカーから荷物を出しているとき、里美は声をかけた。
「ねえ、優作さん」
「はい」
「今週のロス率、見た?」
「……少し、動線を変えたので」
「誰の許可を取って」
「……すみません。出過ぎました」
優作は頭を下げた。里美はその謝り方を見た。
早すぎる。反射的すぎる。言い訳をしない。
これは怒られ慣れた人間の謝り方ではなく——怒られることを、
最初から織り込んでいる人間の謝り方だ。
里美は腕を組んだ。
「動線を変えたくらいで、
十二パーセントは下がらないわよ」
優作は何も言わなかった。
「仕入れのタイミングも、変えたでしょ。木曜の午後に」
「……気づいてたんですか」
「店長代理よ、一応」
沈黙が、バックヤードに落ちた。
蛍光灯が一本、微妙に点滅している。
里美は優作の目を、正面から見た。
疲れた目だ。でも、死んでいない。
むしろ——何かを、ずっと、見ている目だ。
「……あんた、本当に何者なのよ」
優作は少しだけ間を置いて、答えた。
「時給一〇五〇円のフリーターです」
里美は返す言葉を探して、見つからなかった。
優作はロッカーを閉め、エプロンを畳んで棚に置き、
文庫本をポケットに入れて、バックヤードを出ていった。
里美はしばらく、閉まったドアを見ていた。




