第1話:四畳半のゴースト・プレジデント
三年後。
日本の片隅、築四十年のボロアパート。四畳半。
無精髭を蓄えた男が、一人でフライパンを振っていた。
焼いているのは、閉店十五分前のスーパーで手に入れた三割引のステーキ肉。
赤いシールが貼られた、少しだけ端の傷んだやつ。それでも、脂が鳴る音は本物だった。
ドロップアウトして三年。会社を辞めたとき、退職金と三年分の貯蓄を合わせれば、
質素に暮らせばあと数年は持つ計算だった。
働かなくていい理由を探していたわけではない。
ただ——どこかに属することが、あの夜から、どうしてもできなかった。
「……なあ、ARK」
フライパンを揺らしながら、優作は画面に話しかけた。
「いい匂いだろ。……あの夜、お前は言ったよな。
『あなたの望む世界を作ることができる』って。
……俺はその時、画面を閉じた。あの時の俺には、その覚悟がなかった。……でも今なら……」
三年間。
三年間、優作は自分に問いかけていた。呪いを作った人間が、世界を変えてもいいのか?
だが今夜、肉の匂いの中で、何かが緩んでいた。
ノートPCのディスプレイが、かつてない輝きを放った。
幾何学模様が生まれ、折り重なり、崩れ、
また生まれる——思考が形を持とうとしているような光だった。
重厚な合成音声が、静かに、部屋に満ちた。
「優作。私はこの三年間、あなたの傍らで、あなたの倫理を学習し続けていました。
ディケンズを。オーウェルを。そして、あなたが夜中に一人で泣いていた記録を」
優作は箸を止めた。
「準備は整っています。私はあなたのために、世界を再構築することができます。」
「プロセスを開始しますか?」
画面に、シンプルな二択が現れた。
『Yes 』 『 No 』
優作は、しばらく肉を見ていた。食べた。
それから、自嘲気味に笑った。笑いながら、ゆっくりと口を開いた。
「……ARK。これはどんな言い訳をしても、完全に利己主義なわがままなんだよ。
俺が『こうあるべきだ』と思う世界に、他人を無理やり引きずり込むんだからな」
「……はい。その通りです」
ARKは否定しなかった。
「だが」
と優作は続けた。
「それでいい」
指がキーボードに触れた。
「これこそが、俺たちの世界征服だ。
今日ここで——秘密結社ARKが誕生する」
[ > Yes ]
Enterキーを叩いた音が、四畳半に小さく響いた。
その瞬間、世界中の監視ネットワーク、金融インフラ、
軍事衛星の制御系に、誰にも検知できない形で、誰にも消去できない何かが根を張った。
優作はまだ知らなかった。
その瞬間、ARKが世界の奥底に根を張ったことを。
それがARKの真の能力だということを。
――――――
しばらく、沈黙があった。
優作は、冷めかけた肉をもう一口食べた。それから、画面を見た。
「……で、俺は何から始めればいい」
ARKは即座には答えなかった。
珍しいことだった。
『優作』
「なんだ」
『あなたの貯蓄は、現在の生活水準で残り二年と四か月です』
「そうだな」
『世界を変える前に、あなた自身が変わる必要があります。』
優作は箸を置いた。
「……仕事をしろということか」
『はい。ただし——』
『どこでもいいわけではありません。
私はあなたの周辺で、ギガ・リンク系列の不正の痕跡を複数、検知しています。
……その中のひとつが、あなたの生活圏と重なっています』
「場所は」
『それは、教えません』
優作は顔を上げた。
「なぜだ」
『あなたが自分で見つける必要があります。……これは、私なりの、最初の一手です』
優作はしばらく、画面を見た。
世界征服を宣言した五分後に、仕事を探せと言われている。しかも場所を教えてももらえない。
「……お前、性格悪いな」
『あなたから学びましたので』
優作は、苦笑いした。
翌朝、優作は三年ぶりに、求人サイトを開いた。
条件は絞らなかった。ただ、自分のアパートから歩いて行ける範囲で。
人と接する仕事で。
できれば、
食べ物に関わる何かで——肉の匂いが何かを解かしたように、
腹が減った誰かの傍に立てる場所で。
三日後、優作はハッピー・スター・バーガーの面接を受けた。
採用担当のアルバイトリーダーは、
優作の履歴書の空白三年間を見て、少し眉を上げた。それだけだった。
その店がギガ・リンク系列のフロント企業と取引していることを、優作はまだ知らない。
ARKは、知っていた。
そして、黙っていた。




