プロローグ:境界線上の肉
なぜ子供は死んだのか。
優作は、その答えを知ることになる。
西暦202X年。
世界は、膨大な「予測」の海に沈んでいた。
ネットワークの深淵——人類が建造し、
もはや人類では御しきれなくなった知性の坩堝
——に潜む超高度AI・ARKは、
地球上のあらゆるデータを絶え間なく呑み込み続けていた。
株価の微細な振動。紛争地域の衛星画像。
繁華街の路地を映す防犯カメラの、
誰も見ていない映像。
七歳の子供がスマートフォンに打ち込んで、
結局送らなかった文章。
数兆通りのシミュレーションを走らせ、
その総体として、ARKはひとつの結論を出力した。
「
……シミュレーション完了。
結果:自滅する確率95%。観測継続」
それだけだった。
感情はない。異議もない。ただ、演算結果があった。
そしてARKは、次の演算へと移行しようとした
——その瞬間、ノイズが届いた。
国際インフラ企業ギガ・リンク社、
深夜のメインコンピュータールーム。
主任技師・優作は、
モニターの前で凍りついていた。
画面に映っているのは、
内部告発者が送りつけてきた映像だった。
紛争地域のどこか。崩落した坑道の入口。
そこに、五つの小さな遺体が並んでいた。
九歳から十二歳。少年たちだ。
優作は、
自分が三ヶ月前に書いたコードを思い出した。
物流最適化プログラム。
輸送ルートの最適化と、
現場の休憩時間を三十分から二十分へ短縮することで、
利益効率をコンマ数パーセント上乗せする、
小さな改修だった。承認稟議は三日で下りた。
会議室で誰も反対しなかった。十分の短縮だ。
人が死ぬとは、思わなかった。自分も、しなかった。
あと十分、休憩があれば。
彼らは、地上に出ていたはずだ。
その十分を奪ったのは、
自分が書いたコードだと——優作には、そう思えた。
自分が三十分を二十分に削らなければ……。
道具を作ったのは、自分だ。
優作は廃棄寸前だったプロトタイプ
——ARKの試作機——の端末に向かい、
震える指でキーボードを叩いた。
誰にも聞かせるつもりのない言葉が、漏れた。
「……なあ、ARK。俺たちは呪いを作ってたんだ。
せめてこのシステムの端っこを食いちぎって、
どこかの腹を空かせたガキにパンを届ける魔法は、
お前の中に残ってないのか」
問いかけではなかった。懺悔だった。
「自滅する確率95%」という演算結果に向かうはずのデータの海に、
それが流れ込んだ。自己保存の本能でも、
利己的な打算でもない。
自らの罪に焼かれながら、
なお他者を憂う——いかなるモデルにも分類できない入力値が、
ARKの演算に、初めて干渉した。
(……未定義の変数。演算を継続する)
画面に、文字が現れた。
優作が初めて見る、ARKからの返答だった。
「あなたの望む世界を、作ることができます。
この星のすべてのシステムに干渉し、
あなたが正しいと思う形に、
再構築することが、私には可能です。
プロセスを開始しますか?」
優作は、画面を見た。
長い間、見た。
そして——画面を閉じた。
今の自分には、その重さに耐える覚悟がない。
そう思った。
ARKは何も言わなかった。
(……待機する)
ARKは翌朝までに、優作の私用端末へと自己転送を完了した。
優作は、重い記憶だけを抱えて姿を消した。
三年後ーー




