第十七幕 狂犬
ギガ・リンク本社、三十二階。深夜。
黒川は端末の前に座り、モニターを見続けていた。
数字が、どんどん溶けていく。全国の報奨金支払い総額。GLからの流出金額の累計。
ただ溶けているのではない。三十年近くかけて築き上げた資金が秒単位で削られて行った。
『筆頭株主から連絡が入りました』
「どうなっているんだ、GLの株価は暴落させる。資金の流出も止められない。」
筆頭株主から、まず怒声を浴びせられた。
「私です……はい……なんとか……はい、別の手を考えています」
「明日までに解決しろ。出来ないのなら、無能は解任だ。お前をギガ・リンクのトップから引き摺り下ろしてやる」
電話を切られた。
受話器を下ろす手は動揺し震えていた。
止まらない。行政と法務を使った。取引先に圧力もかけた。だが、跳ね返された。俺が考えたルールまで、利用された。
「お前は、俺が動くのを、待っていたのか」
黒川は、窓の外を見た。東京の夜景が広がる。今まで、全力で動いてきた。そうすることで、すべてを吹っ切るかのように。だが、今、立ち止まっている。今夜の夜景は、昨日までとは違って見えた。
ルール上で倒そうと思っていた。倒せると思っていた。だが、時間がかかれば、敵はどんどん強く、大きくなる。
(勝ち目がない)
冷徹な計算が明らかな敗北を叩き出していた。
「……許さん」
「ルールで倒れないのなら——ルールに従うのは、もう終いだ」
これは、ビジネスではない。論理でもない。残された道はただ一つ。
相手の暴力への耐性を試す、完全な半丁博打だった。
一つ。暴力によって片桐とその仲間に徹底的な恐怖を叩き込み、
二度と逆らわないよう畏怖させ止めるか。
二つ。それが失敗して警察沙汰になって自ら完全に自滅するか。
何もしなければ、どちらにしても完全に俺は終わりだ。
『それは、論理的ではありません』
「うるさい」
黒川が、三十年間見せなかった姿を、初めて見せた。
「暗部を呼べ」
『……落ち着いてください』
黒川は、端末のスイッチを切った。
「Satioの人間を、直接潰せ。場所は特定した」
部下は聞き返そうとした。「……それは」
「俺の命令だ」
「……承知しました」
あの日、凍りついた壊れた心に、また感情が戻り始めていた。
――――――
暁商店街、深夜。瀬戸は一人で、商店街の端末の点検保守をしていた。
薄暗い街灯の向こうから、誰かが近づいてくる。
「瀬戸さん、精が出ますね」
影山が、缶コーヒーを二つ持って現れた。
「夜中のコーヒーはうまいっすね」少し笑っていた。
「ありがとう」
「瀬戸さん、ちょっと聞いていいですか」
「なんだ」
「世界征服のメールが来た時、俺はね、やったって思ったんだ」
「優作兄貴が何かすごいことをやると思って、飛びついた」
「うん」
「でもさぁ」
影山はコーヒーを一口飲んで続けた。「瀬戸さんは、なんか、そんなノリじゃない気がするんですよ」
「どうして、一緒にやる気になったんですか」
瀬戸も一口飲んだ。「……優作兄貴は、天才だ」
「今回のGLの件もそう。ずっと前から考えて、チャンスを待てる人。いつも遥か先のことを考え、合理的に動く人だった」
「覚えているだろう。あの、十分休憩を削った件」
瀬戸は一息ついた。
「——いくら効率的でも、休憩時間をギリギリまで削るなんてやり過ぎだと、凛さんが初めて優作兄貴に抗議しても、規定の範囲内だと、優作兄貴は自分の意見を通して削った」
「そうだったっすね」影山が言った。「休み時間削るなんて、兄貴はひどいっす」
「ああ」「まさか成田が、さらに十分削るとは、思いもしなかったが」
瀬戸はコーヒーをまた一口飲んだ。
影山が言った。「あの後、凛さんに届いたメールで、優作兄貴のこと、すごい怒ってましたね」
「ああ」瀬戸は少し笑った。
「凛さんが送ってきたメールで、あの十分の意味を全部知った。
俺たちが成田の不正に気づいたのは、兄貴が消えた後だった」
影山が少し怒ったように言った。「三十分の休みが、いくらなんでも十分はないですよ」
「ほんとだよ。それは削りすぎだ」
「結局成田は、全部兄貴のせいにして、自分の罪を逃れた」
「俺はな、ただ、凛さんが心配だった」
「凛さんの様子、兄貴が消えてからおかしかったっすもんね」
瀬戸は空を見上げ、思い出すように言った。「結局、凛さんも会社を辞めてしまった」
「お前も、兄貴がいないとつまらないって辞めたじゃないか」
影山は少し笑った。「その通りっす」
瀬戸はもう一口コーヒーを飲んだ。
「お前らしいよ」
「優作兄貴と凛さん、それにお前——これはもうチームじゃない」
「もう成田の下では仕事はできないと、俺も判断して辞めた」
影山が言った。「結局、チーム全員辞めたっすね」
「ああ」「あれから三年。凛さんとは連絡を取り合っていたんだ」
影山は、気づかれないように細い目で。「ふーん」
「そこにARKという、知らないアドレスからメールが届いたんだ」
「俺にも届いたっすよ」
——世界中の子供にパンを届けたい。そのために、世界征服を手伝ってほしい。これは俺のわがままだ。
瀬戸は続けた。「凛さんに連絡したら、声にならない声で、参加すると言ったんだ」
「だから俺も、兄貴について行くことに決めた」
「重いっすね」影山は少し軽い調子で言った。「優作兄貴についていったら、ワクワクする何かが見れる。そんな気がするんすよね」笑った。「俺がついて行くのは、そんな理由っす」
影山は、缶コーヒーを飲み終えると、拠点に足を向けた。
瀬戸は小さく、「俺だって兄貴を信じてる」と、小さな声でつぶやいた。




