第九幕 グループという名の器
次の日の午後。
凛は一人で、青文堂の引き戸を開けた。
古い紙の匂い。いつもと同じ本屋の空気。
源はカウンターの奥で、本を読んでいた。
「いらっしゃい」顔を上げずに言った。
「こんにちは、源さん」
「凛さんか」
「邪魔してもいいですか」
「どうぞ」
凛はカウンター前の椅子に腰を下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
源も、本を読み続けた。
この沈黙が苦にならないのは、
凛が最初から急がないからだった。
――――――
やがて、凛が口を開いた。
「源さん、一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「青文堂を、続けたいですか」
源は本のページをめくる手を止めた。
顔を上げる。眼鏡越しに、凛を見た。
「……続けたい、と言ったら?」
「続けられる方法を考えます」
「続けたくない、と言ったら?」
「それはそれで、きちんと終わらせる方法を考えます」
源は少し間を置いた。「……正直な人だ。優作さんに似てきた」
凛は小さく笑った。「そう言われたのは初めてです」
「これでも褒めているんですよ」
「ありがとうございます」
源は本を閉じた。カウンターの上に置く。
「続けたい。でも——」源は少し間を置いた。
「私には後継者がいない。
体が動く間は開けられる。でも、
いつかは終わる。それだけです」
「その『いつか』を、延ばせるとしたら、どうですか」
「どういう意味ですか」
凛はトートバッグから、薄いファイルを取り出した。
テーブルの上に置く。「読んでもらえますか」
――――――
源はファイルを手に取った。ゆっくり、
丁寧に読んだ。凛は待った。急かさなかった。
店の外を、春の風が通り過ぎた。
しばらくして、源が顔を上げた。
「……暁商店街グループ」
「はい」
「法人化、ということですね」
「そうです」
源はファイルを閉じた。「個人商店が、一つの会社になる」
「はい。ただし——」凛は一拍置いた。「源さんは、青文堂の源さんのままです。
看板も、店の雰囲気も、何も変わらない。変わるのは、裏側の仕組みだけです」
「経理や仕入れを、グループで共有する」
「はい。今、それぞれの店が一人で抱えている部分を、まとめて専門の人間が担当します」
「人を雇うんですか」「はい。Satioが責任を持ちます」
「費用は」
「当面はSatioが負担します。グループ全体が軌道に乗れば、そこから賄えるようになります」
源は眼鏡を外した。レンズを拭く。それからかけ直して、凛を見た。
「……後継者の問題は、どうなりますか」
「グループとして存続するので、源さん個人の後継者がいなくても、青文堂という店は残ります」
「私がいなくなっても?」
「はい」
沈黙。源は窓の外を見た。アーケードの向こうに、春の光が見えた。
「……四十年、続けてきた」「知っています」「この街が賑やかだった頃から」
「はい」
「シャッターが閉まっていくのを、ずっと見てきた」
凛は答えなかった。ただ、源の言葉を待った。
「……青文堂が、私がいなくなっても残る」
「はい」
源は、ゆっくり頷いた。「それは——嬉しいですね」
小さな声だった。でも、確かな声だった。
――――――
凛が青文堂を出たのは、一時間後だった。
拠点に戻ると、全員が顔を上げた。「どうだった」優作が聞いた。
凛はトートバッグを椅子に置いた。「源さん、頷いてくれました」
影山が「やった」と言いかけて、凛の顔を見て止まった。
凛の目が、少し潤んでいた。「……凛さん?」
「なんでもないです」
「泣いてますよ」
「泣いてません」
「目が——」
「なんでもないって言ってます」
影山は黙った。里美が、そっとティッシュを渡した。
凛は受け取って、さりげなく目元を拭いた。「……源さんがね」小さく言った。
「『四十年続けてきた』って」
誰も、何も言わなかった。「それだけで、十分でした」




