第八幕 トキの駄菓子屋
凛は一人で、商店街を歩いていた。
アーケードの中ほど。タバコ屋の前を通りかかった時、トキがベンチに座っていた。
いつもと同じ場所。いつもと同じ姿勢。
ただ——何かが違った。
「トキさん」
「ん?」
「どうかしたんですか」
「……別に」
トキは商店街の奥を見ていた。日曜市の賑わいが、少し落ち着いた平日の午後。
「……子供が、いないねぇ」
凛は隣に座った。「日曜市には来てましたよ」「日曜だけだよ」
トキは少し間を置いた。「昔はね、放課後になると、子供たちがここを通っていったんだ。学校の帰り道だったからねぇ」「今は?」「別の道を通る。スーパーができたから」
沈黙。春の風が、アーケードを抜けていく。
「……タバコ屋に、子供は来ないからねぇ」
トキは小さく笑った。「当たり前だけどね」
凛は少し間を置いた。
「トキさん、裏のスペース、まだ空いてますよね」
「ああ。昔、立ち飲み屋があった場所だ」
「何か、したいことがあるんじゃないですか」
トキは答えなかった。しばらく、商店街の奥を見ていた。
「……駄菓子屋、やれたらいいねぇ」
小さな声だった。独り言のような声だった。
「やれますよ」
凛は静かに言った。「でも——」トキは凛を見た。
「子供たちが来てくれるかどうか、分からないし」
「来ますよ」
「どうして言い切れるんだい」
「トメさんが毎日来るようになったのは、名前を呼んでもらえたからです」
トキは少し目を細めた。「……名前か」「子供も同じだと思います」
沈黙。トキはベンチから立ち上がった。裏のスペースを見た。長い間、見た。
「頼めるなら一つだけ、お願いがある」
「はい」
「警告音は、鳴らさないでほしい」
凛は少し間を置いた。「どうしてですか」
「トメさんが恥をかいただろう。子供が恥をかくのは——かわいそうだ」
凛はトキを見た。トキは裏のスペースを見たままだった。
「……お金が足りない時、怒らずに教えてくれるシステムは、できないかねえ」
――――――
翌日。凛は拠点で、瀬戸を捕まえた。
「瀬戸さん、一つ聞いていいですか」
「なんですか」
「お菓子を小さなセルフレジにかざすと値段が出て、お金を入れると『ありがとう』と言って、足りない時は優しく教えてくれる——そういうシステム、作れますか」
「……子供向けですか」
「はい」
「警告音なしで?」
「はい」
瀬戸は少し考えた。「できますよ」
「本当に?」
「——トキさんのためなら、やります」
凛は少し間を置いた。「なぜトキさんのためだと分かったんですか」
瀬戸は笑った。「凛さんが持ってくる話は、だいたい商店街の誰かのためですから」
凛は少し照れた。「……そう?」
「そうですよ」
――――――
数日後。トキの店の裏手に、小さなスペースができた。
駄菓子が、棚に並んでいる。色とりどりの包み。懐かしい匂い。
入口に、小さなセルフレジが一台。
影山が覗いた。「……かわいいっすね」
「ひやかしてんじゃないよ」トキが言った。
「かわいいじゃないですか」
「子供向けだからね」
瀬戸がセルフレジの動作確認をした。「トキさん、試してみますか」
「……どうやるんだい」
「このお菓子をここにかざしてください」
トキが、おそるおそる駄菓子をかざした。
セルフレジが、明るい声で言った。「このお菓子は、50円です」
トキは少し間を置いた。「……50円か」
「百円玉を入れてみてください」
トキが百円玉を入れた。「ありがとうございます。50円のおつりです」
トキは、セルフレジを見た。長い間、見た。
「……もう一回、やってみていいかい?」「どうぞ」
トキはもう一度、駄菓子をかざした。もう一度、百円を入れた。
「ありがとうございます。50円のおつりです」
トキは小さく頷いた。それから、照れたように言った。「……丁寧だねぇ」
瀬戸が笑った。「気に入ってもらえましたか」
トキは答えなかった。ただ、棚の駄菓子を、少し丁寧に並べ直した。
――――――
翌日の放課後。
アーケードに、小さな足音が響いた。
子供が三人、恐る恐る入ってきた。駄菓子屋の看板を見た。目が輝いた。
「……駄菓子屋だ」
「いらっしゃい」
トキが、ベンチから静かに言った。
子供たちが駆け込んでくる。駄菓子をかざす。セルフレジが値段を教える。小銭を入れる。「ありがとうございます」という声が流れる。
子供の一人が、小銭が足りなかった。セルフレジが静かに言った。「もう少しだけ、足りないよ」
子供は慌てて、ポケットを探った。10円玉が出てきた。入れた。「ありがとうございます」
子供は、セルフレジを見た。「……面白い」
「そうだろう」
トキが、ベンチから静かに言った。「ここは、新しい駄菓子屋になったからね」
子供は、トキを見た。それから、駄菓子を持って走り出した。「またくる!」
トキは、その背中を見た。
何も言わなかった。
ただ、ベンチに座ったまま、笑っていた。




