第三幕 青文堂
午後。
優作は一人で、青文堂の引き戸を開けた。
古い紙の匂いがした。インクと、埃と、時間の匂い。
優作は、しばらく入口に立っていた。
――――――
本棚が、天井まで続いている。
文学。哲学。歴史。郷土史。写真集。
ジャンルの境目が、少し曖昧だった。
司書が整理した棚ではない。
店主が読んだ順番で並んでいる棚だ。
優作は、背表紙を一冊ずつ、
指でなぞるように見ていった。
カウンターの奥で、源が本から顔を上げた。
眼鏡越しに、優作を見た。何も言わなかった。
――――――
優作は、一冊の背表紙で指を止めた。
抜き取る。
『暁町の昭和 写真で綴る商店街の記憶』
古い写真集だった。表紙が、日焼けで茶色くなっている。
ページを開く。白黒の写真が並んでいた。
賑わっている。アーケードに人が溢れている。
子供が走っている。魚屋が声を上げている。
今の暁商店街とは、別の場所のようだった。
「……いくらですか」
源が、静かに答えた。「それは売り物じゃありません」
優作は顔を上げた。「……なぜ」
「私が持っていなければならないものだから」
――――――
優作は写真集を棚に戻した。
それから、別の一冊を抜き取った。
ディケンズの『オリバー・ツイスト』。文庫版。
かなり読み込まれている。
「これは?」
「売り物です。二百円」
優作はそれを持って、カウンターに近づいた。
「あなた、もう持ってますね、それ」
源が言った。
優作は手を止めた。「……なぜ分かるんですか」
「その本の読み方をする人間は、
たいていもう持っています。背表紙の触り方が違う」
優作は、少しだけ笑った。「……鋭いですね」
「古本屋は、本より人を見る商売です」
――――――
優作はディケンズを棚に戻した。
カウンターの前の椅子に、黙って腰を下ろした。
源は何も言わなかった。本に目を戻した。
しばらく、沈黙が続いた。
店の外を、春の風が通り過ぎた。
――――――
先に口を開いたのは、源だった。
「隣に入った会社の人ですね」
「はい」
「何をする会社ですか」
「ITコンサルタントです」
「この商店街で?」
「はい」
源は本のページをめくった。「……奇特な人だ」
「そうですか」
「ここは、もう終わりですよ」
「そう思うのに、まだ開けているんですか」
源の手が、止まった。
「……習慣です。四十年、開けてきた。体が、勝手に開ける」
――――――
優作は、店の奥を見た。
天井まで続く本棚。褪せた背表紙。
誰かが手放して、ここに流れ着いた本たち。
「源さん」
「なんですか」
「この本たちは、誰かが読んだ本ですね」
「そうです」
「誰かの手を離れて、ここに来た」
「そうです」
「次の誰かに渡るのを、待っている」
源は答えなかった。
「……商店街も、同じじゃないですか」
沈黙。
源が、ゆっくり顔を上げた。眼鏡越しに、優作を見た。
「……うまいことを言う」
「本当のことを言っただけです」
「同じじゃない」
源は静かに言った。「本には、次の読者が現れる。
でも商店街には、次の世代が来ない。
子供たちは都会へ行った。戻らない。
……それが現実です」
優作は頷いた。「そうですね」
「否定しないんですか」
「できません。本当のことだから」
――――――
また、沈黙が落ちた。
源は本を閉じた。カウンターの上に置く。
「……何をしに来たんですか、本当に」
優作は少し間を置いた。「お願いがあります」
「なんですか」
「青文堂を、実験台にさせてください」
源の眉が、わずかに上がった。
「この商店街に、決済システムを入れたい。
現金もいらない。レジもいらない。
お客さんは買い物だけすればいい」
「……よく分からない話ですね」
「簡単に言うと、
お客さんが勝手に払ってくれるシステムです」
「怪しい」
「怪しいですね」
源は腕を組んだ。「なぜ青文堂が最初なんですか」
「一番難しそうだから」
源は、少し間を置いた。「……正直な人だ」
「嘘をついても意味がない」
「うまくいかなかったら?」
「すぐに撤去します。痕跡も残さない」
「損害が出たら?」
「全額、こちらが負担します」
源はしばらく、優作を見ていた。
品定めをするような目だった。
――――――
やがて、源は立ち上がった。棚の奥へ歩いていく。
一冊、抜き取って戻ってきた。カウンターに置いた。
ジョージ・オーウェルの『一九八四年』だった。
「読みましたか」
「はい」
「感想は」
「……怖い本だと思いました。
善意で作られた監視が、一番始末に負えない」
源の目が、細くなった。
「あなたのシステムは、監視になりませんか」
優作は、その目をまっすぐ見た。「なります」
源が、わずかに息を呑む。「……正直だ」
「ただ」
優作は続けた。「誰が何を買ったか、私は見ません。AIも、
集めたデータを外に出しません。
見るのは——人の流れだけです。何時にどの店に人が来るか。
どこで人が止まるか。それだけです」
「信用できますか、それを」
「できません」
沈黙。
「私を信用する必要はない。システムを見てください。
一週間、使ってみて、おかしいと思ったら言ってください。
その場で止めます」
――――――
源は、『一九八四年』を棚に戻した。
引き戸の方を見た。アーケードの、春の光。
シャッターの並ぶ路地。長い間、見ていた。
「……一週間だけですよ」
優作は頷いた。「ありがとうございます」
「お礼はまだいい」
源は椅子に戻った。
本を開く。「邪魔しないでください。読んでいるので」
「はい」
優作は立ち上がり、引き戸に手をかけた。
「源さん」
「なんですか」
「さっきの写真集」
「売り物じゃないと言いました」
「知ってます。……いつか、見せてもらえますか」
源は本から目を上げなかった。だが。
「……気が向いたら」
それだけ言った。
――――――
優作は青文堂を出た。
春の風が、アーケードを抜けていく。
拠点に戻ると、影山が飛んできた。「どうでしたか!」
「一週間、貸してもらえた」
「説得したんですか!? 何て言ったんですか!」
優作はコートを脱ぎながら答えた。「本の話をした」
「それだけですか」
「それだけだ」
影山は釈然としない顔をした。
里美が、コーヒーを持ってきた。優作の顔を見て、
小さく笑った。「うまくいったのね」
「一週間だけです」
「十分よ」
里美はコーヒーを置いて、
ホワイトボードに向かった。チョークを手に取る。
「青文堂・源さん——実験開始」と書いた。
その下に小さく「一週間」
――――――
その夜。
優作は一人で、ノートPCの前に座った。
ARKの幾何学模様が、静かに待っていた。
「……ARK」
『はい』
「決済システム、設計する。一緒にやれるか」
『はい。ただし——』
一拍。
『優作が書くコードです。私は手伝うだけです』
優作は少しだけ笑った。「知ってる」
画面の幾何学模様が、静かに、しかし力強く、脈打った。
深夜の拠点に、キーボードの音だけが響き始めた。




