第18話:庄屋の決断
翌朝。
ギガ・リンク本社、三十二階。庄屋は黒川に呼ばれていた。
エレベーターを降りた時から、空気が違った。いつもと同じ廊下。
いつもと同じドア。しかし——何かが、張り詰めていた。
ノックした。
「入れ」
黒川は窓の外を見ていた。書類は、
デスクの上に置いてあった。今日は読んでいなかった。
「昨夜、成田に会ったな」質問ではなかった。
「はい」
「
なぜだ」
庄屋は少し間を置いた。
「会いたかったので」
黒川は窓の外を見たまま、何も言わなかった。
東京の空は、今日も晴れていた。
「
成田は今、どこにいる」
「知りません」
「本当か」
「
はい」
嘘だった。しかし庄屋は表情を変えなかった。
黒川は窓から離れた。デスクに戻り、椅子に座った。
庄屋を見た。
その目が、いつもと違った。
感情がない、という点ではいつも通りだった。
しかし——その奥に、何かを測っている気配があった。
「庄屋」
「はい」
「お前は今、何をしている」
「ギガ・リンクの仕事をしています」
「それだけか」
庄屋は黒川を見た。
黒川は庄屋を見ていた。
二人の間に、沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
「……それだけです」
黒川は何も言わなかった。
書類を手に取った。
「下がれ」
「はい」
庄屋は扉に向かった。
「庄屋」
振り返った。
黒川は書類を見たまま言った。
「お前は優秀だ」
庄屋は、その言葉を聞いた。
何も言わなかった。
扉を閉めた。
――――――
廊下を歩きながら、庄屋は右手を見た。震えていなかった。
しかし——黒川の最後の言葉が、頭に残っていた。
「お前は優秀だ」
脅しではない。罠でもない。あれは——本心だった。
それが、庄屋には一番、怖かった。
――――――
昼休み。
庄屋は拠点に来た。
コンビニのコーヒーを三つ。いつも通りだった。
しかし里美は、入ってきた瞬間に気づいた。
いつもと顔が違う。
「……何かあったんですか」
「黒川に呼ばれました」
優作が画面から目を上げた。
「何を言われましたか」
「お前は優秀だ、と」
拠点に、沈黙が落ちた。
里美がコーヒーを受け取りながら言った。
「……それは怖いですね」
「っすよね」
庄屋はパイプ椅子に座った。
コーヒーを一口飲んだ。
「……そろそろ、限界だと思います」
優作は庄屋を見た。
「どういう意味ですか」
「ギガ・リンクの社員として動ける時間が、
もう長くない」
庄屋はコーヒーを置いた。
「黒川は気づいています。まだ確信はない。
でも——あと少しで、動いてくる」
「いつだと思いますか」
「一週間。長くても十日」
優作はARKの画面を見た。
『庄屋の判断は正確です。
現在の黒川の動きから推測すると——七日から十日以内に、
庄屋への何らかのアクションが想定されます』
「辞表を出すか」優作が言った。
「その前に」
庄屋はブリーフケースを開けた。
「やることがあります」
――――――
庄屋がブリーフケースから取り出したのは、
薄いフォルダだった。
「これは」
「ギガ・リンクの内部資料です。
黒川が関与した案件の記録——証拠にはなりませんが、
状況証拠として使えるものを、この三週間で集めました」
優作はフォルダを受け取った。
里美が覗き込んだ。
「……これを集めるのに、どれだけ時間をかけたんですか」
「毎晩少しずつ」
「会社のデータを」
「はい」
「……それ、ばれたらどうなるんですか」
「懲戒解雇です。最悪、訴えられます」
里美は少し間を置いた。
「……わかってて、やったんですか」
「はい」
庄屋はコーヒーを飲んだ。
「俺はまだギガ・リンクの社員っすから。
できることをやっておかないと」
優作はフォルダを見た。
それから庄屋を見た。
「……庄屋さん」
「はい」
「なぜここまでするんですか」
庄屋は少し考えた。
本当に、少しだけ考えた。
「……アフリカの話を聞いた時から、
ずっと引っかかってたんっすよ」
「何が」
「返信がなかった、という話です」
優作は動かなかった。
「あなたが確認を求めた。でも誰も答えなかった。
……それが、ずっと」
庄屋はコーヒーを置いた。
「俺はあの時、ギガ・リンクにいました。
同じ会社にいた。返信しなかった人間の一人かもしれない」
「庄屋さんはあの時——」
「経営企画部の新入社員でした。知らなかった。でも——」
庄屋は窓の外を見た。
「知らなかった、では済まない気がして」
拠点が、静まり返った。
里美が、庄屋の横顔を見た。
優作は、フォルダを見たまま動かなかった。
『……庄屋賢治』
ARKが、静かに言った。
『あなたは今、とても重要なことを言いました』
庄屋は画面を見た。
「そうっすか」
『はい』
「……AIにそう言われると、照れますね」
里美が、小さく笑った。
――――――
その夜。
庄屋は一人で、車の中にいた。ギガ・リンク本社の近くではなかった。
今夜は、別の場所に止めていた。スマホを手に取った。
辞表のファイルを開いた。三週間前から、下書きだけは作ってあった。
日付を、今日の日付に変えた。しばらく、画面を見た。
送信ボタンを、押した。スマホをポケットに入れた。
窓の外に、夜の街が広がっていた。(……六十パーから、始まったな)
庄屋は小さく笑った。それから、エンジンをかけた。
――――――
同じ頃。
ギガ・リンク本社、三十二階。
黒川の端末に、通知が届いた。庄屋賢治、辞表提出。
黒川は通知を見た。書類を置いた。
窓の外を見た。東京の夜景が、静かに広がっていた。
焦りは、なかった。怒りも、なかった。
ただ——
(……やはりか)
その一言が、頭の中で静かに転がった。
わかっていた。
しかし——
「お前は優秀だ」
今朝、自分が言った言葉を、黒川は思い出した。
なぜあれを言ったのか。
計算ではなかった。
それだけが、わかった。
黒川は窓から離れた。
書類に、視線を戻した。
表情は、変わらなかった。
ただ——書類を持つ指が、ほんのわずかに、止まった。
それだけだった。




